死霊のはらわた

 

「今日、未名子はこの資料館で、午前中からずっと作業をしている。資料に対応したインデックスカードの整理と確認だった」。「ただここの実態はあくまで順さんの私的な資料を保存しておく場所であって、建物のはほど多くない部屋のすべてにすきまなく詰まっているのは、とくに誰に向けてのものでもない雑多な情報の蓄積だった。具体的には、島の現在までのなりたち、たとえば戦争前夜から生きている人の、あるいは親の親というもっとずっと昔の人たちから聞かされていたことの、また聞きも含めた話を集めてきた資料の貯め置き場」。

「この資料館に通うようになってからも、未名子は自分のいる土地の歴史や文化にあまり強く興味を持つことはなかった。ただ資料館に積まれたものを見て、そこにあるいろんな事情を読み解くことは楽しかった。そのとき、人間というものに興味が持てないのだと思いこんでいた未名子は、でも、順さんの集めた資料を見ることで、自分のまわりにいる人たちや人の作った全部のものが、ずっと先に生きる新しい人たちの足もとのほんのひと欠片になることもあるのだと思えたら、自分は案外人間というものが好きなのかもしれないと考えることができた」。

 単にカードを検めるだけではない、彼女はサンプルをスマホで写真に取り込み、さらにSDカードへと移し替えていく。

 この資料館はあくまで私設に過ぎない、公的機関から何かしらの助成金が出ているわけでもない。未名子自身も、アーカイヴズ管理をめぐる資格を持つでもない。

 無給で従事するこの作業とは別に、未名子には生計の手段があった。問読者、通称トイヨミ、ひとりきりの「スタジオ」でネット越しにつながった異邦人を相手に日本語でクイズを出題していくというもの。クイズというよりも、スリー・ヒントの連想ゲームと言った方がニュアンスはより近い。例えば、「鴨川、波、造形の影響は、何者へ?」モニターに表示された通り未名子が読み上げ、そしてパネリストの回答を待つ。「……北斎?」「正解!」ということらしい。「クイズの正解数や内容により、通信相手の精神や知性の安定を確認する目的でこのサービス」は利用されている。

 彼女にとっての本編はむしろクイズの後の雑談の方だった。背景から察するに幽閉されたような空間にいるらしい「彼らは基本的に孤独にさいなまれていたようで、未名子がたずねることなく向こうから勝手に自分自身の細かな話をしてくることが多かった。(中略)彼らの話に漂う孤独なるものは、同情や脅威を生むものというより、未名子の送る毎日の生活に絶えず漂っているものとほとんど同じものに思え、未名子はこの会話によって、すぐ近所に暮らしている人と悩みを分かち合っているような気持ちになっていた」。

 そんなある台風の明けた朝、カーテンを引くと、庭に「大きな一匹の生き物らしき毛の塊がうずくまっていた」。動物にとんと疎い彼女には見当もつかない。仕事を終え、家に戻ると、相も変わらず動物は庭で丸まっている。「家に入って」と通じるはずもないことばで語りかける。すると、ずっくり起き上がる。その姿、見たことがあった、動物図鑑ではない、資料館の古い写真で。

 宮古馬だった。

 

 ところでこの宮古馬、ググってみると県の天然記念物に指定されており、現存するのは50頭にも満たないらしい。その割に、本書の世界線における扱いは、本当のところは宮古馬でなかったとしても、ひどくぞんざい。手綱も鞍もなく裸馬にまたがるというのは、リードなしの犬の比ではなく、相当に無謀なファンタジーだよな、とか、仮に公道を歩くとなれば軽車両扱いなんだけど、とか、馬と人との携わりにしても、速さと強さを争う競馬やあるいは畜産だけではなくて、馬術ジンガロもあるんだけどな、とか、そんな重箱の隅とは言わせないツッコミの数々さえも入れる気も起こさせないほどに、このテキスト、卒倒しそうなほどに杜撰なのである。というよりも、物語を組み立てる意志があるようにすら見えない。

 例のクイズと資料館、あるいは戦争と台風の共通項、つまり、「めちゃめちゃになってしまった町を元に戻すとき、あまりにも様子が変わってしまったその風景を取り戻すには、どんな些細な手がかりでも必要だった。いくら元々の姿を覚えていたとしたって、ひどくめちゃくちゃに壊れてしまった後だとなんらかのヒントがないと戻せない」。陳列されたアイテムに仮託したいメッセージは分からないことはない、というのも、このようにいちいちがあからさまにひねりなく記してあるのだから。ただし、そうしたメッセージを乗せるためのメディアとしての物語が、本書にはおよそ見出せない。

「命と引き換えにして引き継ぐ、のではなく、長生きして守る。記録された情報はいつか命を守るかもしれないから」。

 メッセージがまっとうであることは、そのための方法論のグタグタをなんら正当化しない。こんな露骨な説教を並べずとも、感情移入を通じていつの間にか読む者の首肯を得る、それがおよそ世界に遍く寓話の機能なのではなかろうか。

 それどころか、一連のアプローチは、本書のテーマ性から鑑みるに、それ自体への重大な裏切りを孕んですらいる。

 かき集められた資料は、にもかかわらず、断片的な虫食いを超えない、抽象極まるテーゼがそうあるように。失われた時間、事物に立体性を与えうるものがあるとすれば、それはピースとピースをつなぐ論理性に他ならない、まさに本書に欠けているところの。論理があってはじめて、資料は光を放ちはじめる。論理への信頼が資料を資料たらしめる。リテラシーをもって資料改め死霊はようやく意味を獲得する。

 ヒントはばらまきました、あとは読者にお任せします。

 丸投げされても困ります。

 

 もはや意図的ですらあらねばならない、筆者による自作解題としか思えないシーンがある。

 未名子はカット野菜とベーコンを半分ずつ使って、トマトの缶詰を開け鍋に注ぎ、すべてをそのまま火にかけて、スープを作る。冷凍庫からパンを取り出して凍ったままバターを塗りトースターに入れる。はたしてこういう類の行為を料理と呼んでいいのか、ばらばらに買ったものを包丁を使うことなくいっしょくたにして火にかけるだけなら、出来合いのもの、たとえばスープの缶詰などを買うのとたいして費用も手間も変わらないのではないだろうかと、くつくつ沸くスープの表面を見つめながら未名子は考える。

「はたしてこういう類の行為を」小説と呼んでいいのか、私は考える。

 

 もっともこれらですらも本書の病のほんの序ノ口、表現手法において拙いというだけならば、単に毒にも薬にもならないだけのことなのだから。その病理を象徴するのが以下に引くクライマックス、これを読まされてどう思うだろう。

 

 未名子のリュックに詰まっているのは、数日前まで資料館の中に在ったすべての情報だった。役に立つかどうかなんて今はわからない。でも、なにか突発的な、爆弾や大嵐、大きくて悲しいできごとによって、この景色がまったく変わってしまって、みんなが元どおりにしたくても元の状態がまったくわからなくなったときに、この情報がみんなの指針になるかもしれない。まったくすべてがなくなってしまったとき、この資料がだれかの困難を救うかもしれないんだと、未名子は思った。

 ただ未名子は、そんなことはないほうがいい、今まで自分の人生のうち結構な時間をかけて時六した情報、つまり自分の宝物が、ずっと役に立つことなく、世界の果てのいくつかの場所でじっとしたまま、古びて劣化し、穴だらけになって消え去ってしまうことのほうが、きっとずっとすばらしいことに決まっている、とあたたかいヒコーキ[宮古馬の名前]の上で揺られながらかすかに笑った。

 

「決まっている」と断言されても、私にはこのパラグラフ間の脈絡がおよそ理解できない。当然、本書にこの飛躍をブリッジするような物語が展開されていたわけでもない。

 そして、「決まっている」などと平然と口走れてしまう鈍感さ――まるで歴史修正主義者のような――にこそ、本書の耐えがたき宿痾がのぞく。「決まって」などいないから歴史はクリティークを重ねる、そしてそのために資料を必要とする。ある面では筋が通っていると認めるべきか、このヒロイン、ついに歴史へのさしたる関心を抱くことはない。自らに安全基地をもたらしてくれた順さんへの愛着が、彼女をアーカイヴズへと走らせているにすぎない。敵と味方で画然と分かたれた、順さんならざる、もしくは回線の向こうのパネリストならざる対照群といえば、本書においては例えばマンスプレイニング全開の警察官であり、資料館やおよそ知識なるものをテロリストの巣窟か何かのようにみなしたがる人々であり、つまり彼女にとってみれば世のほぼすべての人々である。あるいはそれを「みんな」と呼ぶ。

 資料があらわすのは、昔という名のここではないどこかではない、紛れもなくここをめぐる過ぎ去りし現在に他ならない。そしてここに本作の根深き矛盾が横たわる。昔も今も変わらない、歴史など所詮、クズのクズによるクズのための歴史に過ぎない、言い換えれば、資料とは専ら彼ら相容れぬ対照群をめぐるものに他ならない。ふたりだけの記憶をいうならば、遺骨だけで事足りる、順さんを失った未名子が、それでもなお資料を慈しむべき別段の理由はそこにない。非ゼロサム・ゲームを象徴するだろう宮古馬とともに孤独を決め込む彼女にとってはむしろそれは唾棄すべきものですらある。「元」を力説する割に、今現にある「元」に対しての情愛をまるで持たない。だからこそ、彼女にとっての資料とは引き継ぐものではあったとしても、新たに集めるべきものではあり得ない、なるほど部分的には辻褄は合う。馬脚を現したとすべきか。

 現に在る他者を愛せぬ者は、過ぎ去った他者を愛することもできない。そのような輩が説く資料の尊さに、白々しさの他に何を受け取れというのだろうか。