珊瑚と花と

 

 そこは一面彼岸花が咲き乱れる〈島〉の岸辺、ひとりの少女が気を失って横たわる。彼女の言葉と〈島〉の言葉、「似ているが微妙に異なっている」。

 片や彼女の「ひのもとことば」は、一切の漢字、漢語が排されたもの、どうしてもやまとことばで足りなければ、英語をもって補充する、つまりは、敵性語排除論とオーウェル的ニュースピークの混淆物。後にひとまず宇実と名づけられる記憶喪失の彼女が、わずかにちらつく郷里の残像について「ひのもとことば」であらわすところでは、「むかし すんでいたところを おもいだそうとすると、なんだか とても かなしい きもちになってしまう。……もし、うみの むこうが まことに〈ニライカナイ〉だとしたら、〈ニライカナイ〉はイン・ファクト、とても かなしいところだとおもう」。〈島〉の人間に言わせれば〈ニライカナイ〉に違いないだろう彼女の故郷には、「理想とされる人間関係があり、理想とされる生活様式があり、理想とされる家族のあり方や生き方があった」。

 対して〈島〉で用いられるのは〈ニホン語〉。例えば彼らがしばしば食べるおにぎりは「飯団」と呼ばれる。骨組みこそ「ひのもとことば」に通じるものの、「加油」「剛好」といった固有の言い回しが宇実には皆目見当がつかず、ひたすらの困惑に駆られるばかり。宇実の目に映る〈島〉の人々は「不思議な感覚」をもたらさずにいない。「みんなそれぞれやることがあって急いでいるけれど、空気は少しも張り詰めておらず、人々もどこか余裕があるように感じられた」。それはまるで「全てが白っぽくて、清潔で、無菌な感じがする」宇実のかつての住処とは好対照の場所だった。

 ところで〈島〉にはもうひとつ、〈女語〉なる言葉が伝えられていた。文字通り女性、わけてもノロのみに習得を許された言語であり、〈ニライカナイ〉の言葉とされ、そしてそれは「ひのもとことば」に近似する。ノロたちはしばしば〈ニライカナイ〉へと漕ぎ出しては「宝物」を持ち帰る。「夥しい量の米、小麦粉、大豆、果物、調味料などの他、Tシャツやジーパン、ワンピースなどの洋服、シルクの生地、髪の毛や身体を洗う時に使う粘性の高い白い液体、太陽の光を電力に変える魔法の板、セメントや金属などの建材、車を走らせたり工場の機械を動かしたりするのに必要な電池や油。車や機械そのものも何台かあった」。そしてそれらはノロによって公正に分配される。

 そしてその頂に君臨する大ノロと、宇実はようやくの面会を許されるも、早々に〈女語〉で言い放たれる。

「お前は〈島〉に属しておらん。悪いが出ていけ」

 ただし、「出て行きたくないんなら」と大ノロは条件を出す。

「春までに〈島〉の言葉を身につけなさい。そして〈島〉の歴史を背負って、ずっと〈島〉で生きていきなさい」

 

 この小説、致命的につらいところがある。

〈女語〉、〈ニホン語〉、〈ひのもとことば〉による三すくみ関係、なるほど、ノロではない〈島〉の民にとってはいかにも謎が深いのかもしれない。この構図が〈ニライカナイ〉幻想を抱かせる所以も分からないことはない。

 しかし、読者からしてみれば、何を寓意しているのかがあまりに明々白々な状態で、ページを繰ることを余儀なくされる。なぜなら、読者が用いている言語は、さらにこの小説の地の文で用いられている言語は、まず間違いなく〈女語〉であり、そして〈ニホン語〉と〈ひのもとことば〉への分断が何を意味しているのかについても一連の初期設定を提示された瞬間に既に把握できてしまうのだから。ノロニライカナイといった言い回しがどこのエリアに固有のものであるかなども手がかりとしては十分に過ぎるだろうし、筆者のパーソナルな来歴を参照すればなおさらのことである。そして破綻なくルール・メイキングを貫徹しようとすればするほど、予期されただろう通りの帰結を記述せざるを得ない。

 

 由らしむべし、知らしむべからず。

 この小説において展開されるノロの統治原理について、私は不気味ささえ覚えてしまう。

〈女語〉を寡占することで、外交エリートたる特権を得る、この一点において、ラテン語ウルガタをもって宗教特権を牛耳ってみせた、古来の西欧カトリック圏、あの堅固なる封建制度をどうにも連想させよう。

 本書のロジックならばこう言い返すだろう、富の分配はあくまで「公正」であり、その批判にはあたらない、と。ならば私は再反論する、誰がそれが「公正」であることを担保するのか、と。

 それはエスタブリッシュメントではなく民に他ならない、しかし、著しき情報格差を埋め込まれた彼らがどうして「公正」を規定することができるだろうか。タウンシップなき「公正」を果たして「公正」と見なせるのか。無知の上に成り立つパンとサーカスの幸福は本当に幸福と呼べるのか。

 タウンシップなき、パトリなき世界の行き着く先を現在進行形でこの目で見ている。つまりはネトウヨであり、Qアノンであり、字義通りの意味しか持たない反知性主義者であり、ローン・ウルフである。信頼すべき隣人も持てぬまま被害妄想に憑かれる他ない、哀れで醜く汚らわしい肖像だけがそこにある。「公正」とやらが死の他に与えられるべき慰めをもはや持ち得ない彼らをどうして救うことができるだろう。この〈島〉の民のみが必然としての統合失調回路を逃れ得る論理など、本書では示されないし、もちろん示しようもない、なぜならそんなものはないから。

 

 人の口に戸は立てられない。仮に戸が立つとすれば、それはそもそも人々が互いにろくに言葉すら交わさない社会、互いへの関心を持たない社会、つまり社会とも呼べないような何かにおけるものでしかない。

 それを象徴するようなエピソードがある。

 ある登場人物が大ノロとの個人的なエピソードを明かすシーン、この箱庭内の人々だってやはり喋らずにはいられないのである。あるとも知れずなきとも知れず、人から人へと波及する。こうした噂の集積体をもって紛れもなく「歴史」と呼ぶ。筆者が思い描くような、〈島〉の運命を規定するエリート主義の政治劇、いわば大きな物語だけが「歴史」なのではない。自らが目撃、体験した過去の出来事を何の気なしに語り合い、そして膨張と収縮を繰り返しながら伝播していく、かくして育まれる共通の記憶――それは事実であることを必ずしも含意しない――をもって「歴史」といい、共同体は共同体たる所以を持つ。路地を舞台にこのプロセスをテキスト化し、日本語でも神話は書けることを証した、不朽不滅、中上健二の金字塔『枯木灘』をどうにも思い出さずにはいられない。

 言葉なき社会を舞台に言葉を論ず、私はそこに自己矛盾を見てしまう。

 先に引いた宝物リストを改めて確認してみれば、そこからは巧みにも一切の情報機器は外されている。

「歴史」の機密化が可能な〈島〉など、真理省うごめくディストピア以外の何かではあれない。

 

 気になる点を挙げはじめるとキリがない。

 本書は〈島〉の娘が、宇実に口づけるところから展開していく。もちろん、人工呼吸ではないようだ。すると眠れる少女は目を覚ます。どう考えても白雪姫である、ただし王子様のいない。女性と女性、シスターフッドとして世界線をいっそ規定してしまえばいい、ためらうことなどない、それは例えばプリンセスものの権化であるディズニーが『アナ雪』をもって振り切ったように。プーチンを見よ、トランプを見よ、そしてそのビリーヴァーどもを見よ、本当のところ、ジェンダーとしての男性原理の閉塞など誰しもがとっくに気づいていることなのだから。ただし、それはセックスを理由に男性を締め出すべき、そして女性のみを引き上げるべき論拠には必ずしもならない。

 もっとも、〈女語〉を女から解き放つ、そのトランスのためのロジックが本書においてこれといって示されることがない、にもかかわらずその方向性へと針路を取る。そうある以上、とってつけた感はどうにも否めない。

 

 半世紀前、限りなく似通った夢想を描いていた人々がいた。北朝鮮に地上の楽園を見てしまった、あのナイーヴに過ぎた一群である。

 結果的にこのテキストが描き出している場所は、おそらくは作者自身の意図しただろう場所とは著しき違背を示す。

 男が仕切るとうまくいかない、女が仕切ればうまくいく、わけではない。蔡英文だろうが、ジャシンダ・アーダーンだろうが、アンゲラ・メルケルだろうが、オードリー・タンだろうが、仕切る誰かを持つ限り、等しくうまくいかない、すべて人間はいかなる権威にもなじまない。だからこそ、パターナリズムの焼け跡で、皆が手を取るシスターフッドが光を放つ。