海の向こうで戦争が始まる

 

 主人公の「私」はオレゴン在住の留学生。東京の朝鮮学校を追われ、ハワイにもなじめず、そうして流れ着いたハイ・スクールからもその無気力ゆえに放校寸前。

「私は、ウォールフラワーですらない。本当に、ただの透明人間だった。そして、また、そうあるように心がけていた」。

 ホームステイ先のステファニーとは妙に馬が合う、それが辛うじての避難所だった。その彼女から、ある散歩の途中、尋ねられる。

「あなた、ここに来る前に何かあったのかしら」

 

 いつか誰かが言っていた。よく笑う人間は、沢山傷ついた人だと。心から優しい人間は、本当に深い傷を負った人なのだと。でも、と私は考える。沢山傷ついた人間が、数えきれないほどの人たちを自分以上に傷つけてきた場合、それは果たして優しいと言えるのだろうか?

 自分の傷を言い訳に、よりによって最も大切な人たちを、傷付け、騙し、欺き、追いやり、日の当たらぬ闇の底へ――自ら這いつくばって抜け出すしかない奥底まで突き落とした人間。

 それが私だ。

 これは、そんな私の物語なのだ。

 

「空が落ちてくる。何処に逃げる?」

 本書を読みながら、たまらなくちらつき続けたテキストがある。

 村上龍限りなく透明に近いブルー』。そのクライマックス、「僕」は「黒い鳥」を見る。

 

 リリー、あれが鳥さ、よく見ろよ、あの町が鳥なんだ、あれは町なんかじゃないぞ、あの町には人なんか住んでいないよ、あれは鳥だ、わからないのか? 本当にわからないのか? 砂漠でミサイルに爆発しろって叫んだ男は、鳥を殺そうとしたんだ。鳥は殺さなきゃだめなんだ、鳥を殺さなきゃ俺は俺のことがわからなくなるんだ、鳥は邪魔してるよ、俺が見ようとする物を俺から隠してるんだ。俺は鳥を殺すよ、リリー、鳥を殺さなきゃ俺が殺されるよ。リリー、どこにいるんだ、一緒に鳥を殺してくれ、リリー、何も見えないよリリー、何も見えないんだ。

 

 天より覆いかぶさる抑圧主体、「鳥」のモチーフ、1970年代の村上にとってそれはきっと米軍だし、ベトナム戦争だし、そして何よりも日本社会だった。「飛行機の音ではなかった」をもって書き出される不能感に、しかし束の間忘却させる手段としてヒッピー・カルチャー、セックス・アンド・ドラッグがかりそめの慰めを与えた。

 しかし、1990年代の崔の「私」にそのような慰めは存在しない。「空」に仮託された寓意性はほぼ「鳥」と等価、それは例えば朝鮮学校の壁にかかる将軍様ファミリーの御真影であり、テポドンであり、「ゲームセンターの悪魔」であり、つまるところは「私」の立つ同時代性である。違いがあるとすれば、アフター1995、斜陽の平成には何の逃げ場も与えられてはいないこと、そして「私」は後期近代的な自己参照のミラー・ラビリンスにひたすら閉じ込められる。

「まともに生きる。誰が好き好んでそんなことをする」。

 そして「私」は「まともに生き」て、「まとも」に「空」と立ち向かい、精神病棟へと送られた。

 

 もっとも本書は、そこにひとまずの救いを用意することで決着を見る。

 あるいは現実のどこにいるとも知れない「まとも」な「誰か」をテキスト上に降臨させる、気休めだって構わない、少なくとも「私」が「私」と対峙させられ続ける狂気に比すれば、そこには確かに希望がある。

 

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