最後の晩餐

 

 ある荒れ果てた漁村にサイトウを名乗るひとりの女が現れるところから物語ははじまる。

 

 サイトウは歳を取らなかった。パンツスーツに淡い青のブラウスを着て、町の空き家に棲み着いた。それからずうっと歳を取らなかったし、彼女は家の補修ばかりをしていたので、空き家だった田舎造りの家は、年月と共に町でいちばんきれいな家になった。……そういう作業をするときは高校時代のジャージを着ていて、脚立に上って爽やかに袖で汗を拭う姿をみな塀の外から見て、こんな町にもまだ先があるように思われるのだった。……こうなると半分神様のようなもので、皆言うことを聞く気になったのだ。

 

 そんな最中、町唯一の身寄りなき資産家が急逝する。その遺産で神社を建立することをサイトウが提案し、あっさりと町内会議で可決される。神社の石柱にサイトウが6人の名前を彫る。クロード・モネレンブラント、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ、葛飾北斎、ウィリアム・ターナーサルバドール・ダリ。「山にはいろいろな名前が与えられては忘れられ、最終的におりんぽすと呼ばれるようになった。彼らの世話を焼くのはサイトウの役目だ」。

 ある者が危惧を寄せた。

「なんといいますか、画家を神とするというのは初めての試みですから、彼らの行動を観察して、それがどのように町に影響を与えるかということをまず考えないといけません」

 やがてその警戒は的中する。「画家たちがあまりに熱心に見つめ続けたからだろう、海はずいぶんと荒れた」、それはまるでフリードリヒが、北斎が、ターナーが描いた高波を混成させたかのように。鎮めるべく導き出された結論は、

「人身御供を用いる」

 

 本書表紙に目を凝らす。タイトルの「巨匠」に注が振られている。

「巨匠……世界を新たに解釈する方法を築いた人物のこと」。

 ある者は「浮世絵における風景画を確立した」そのことをもって、またある者は「暗い画面に浮かび上がるような荘厳な光を描く、大胆なキアロスクーロ(明暗法)」をもって、またある者は「フロイト心理学的アプローチから、ゲーテ形態学へと変遷する先進的な絵画」をもって、おりんぽすへと召される。本書における別の言い方をすれば、「他人の目は、借りられる」。

 貸し出せる「目」によって「巨匠」の名声を確立した彼らは、死をもって次なる世代へと引き渡す。これらの「目」を併せ持つ別の誰かが「ひっくり返し屋」としてまた新しい「目」を視覚芸術で表し、そしてまた次なる「目」へと座を譲る。束の間の降臨とて、この新陳代謝のスパイラルを何ら変えるところはない。

 

 無理矢理に本書から意味をこじつけようとすれば、あるいはこんな話にでも落ち着くのかもしれないが、良くも悪くも、益体のないファンタジーである、もっと気楽に読めばいい。

 モネが食らうは、ポタージュ・フォンタンジュに子牛のオリーブ風、またあるときはターナーが釣り上げたカワカマスに舌鼓を打つ。フリードリヒが言うことには、「じゃがいもを食べるには、火を熾さなきゃいかんということだよ。大事なのは信仰心で火傷しないことと、愛国心の中まで火を通すこと」、そうしてメークインを頬張る彼の傍らで、ダリはロブスターを受話器に見立てることもなく塩ゆでにしてかじりつく。多少は伝記的史実によるだろう、これらのどうということのない戯れに束の間身を委ねれば、それ以上の何を求める必要があるだろう。

「巨匠」ならざる私たちは、後世に「目」を残さない、けれども彼らと同じように、美味を堪能するくらいのことはできる。もちろん、天に召された彼らがこの経験をする日は永久に訪れることがない。

 

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