What a Wonderful World

 

 僕は「酒場ライター」なる酔狂な肩書きで仕事をしています。なので、日本が本格的なコロナ禍に突入して以降、「仕事がなくなって大変じゃないですか?」と心配してもらうことが増えました。ところがありがたいことに、今のところまったくそんなことはないんですよね。……

 本書は、なかでも特に自由に、のびのびと仕事をさせてくれるありがたきWEB媒体『QJWebクイック・ジャパン・ウェブ』と『デイリーポータルZ』から選んだ記事を、加筆修正して再構成した内容となっています。

 ふだんは1階で食料品を買うばかりだった駅前のスーパー。ふと気まぐれに2階に足を踏み入れてみると、そこにはノスタルジー満載の空間が広がっていた。日常のなかにまだこんな冒険が残っていたなんて! なんてことをひたすらやっているだけの本ですが、「こいつ、バカだけどとりあえず楽しそうに生きてるな」ってことだけでも感じてもらえたら、読んでくれた方の肩の力もちょっぴり抜けるんじゃないかな、なんて。

 

 本書が取り上げるやってみたの日常系の数々が案外と、私の文字にしようとも思わない日常と丸かぶりだったりする。

「黄身なしゆでたまごを作って白身に感謝したい」。

 外食産業がゴリ押しする、原価いくらだよな卵の黄身のトロっと感なんてただのコレステロール・ハラスメントじゃん、と栄養学をうっかりかじった人間ならば誰しもが等しく思うところだし。

「ふだんと違うスーパーで、ふだんと違う魚を買ってみる」。

 この半年くらいで買って捌いたレアな魚をざっと思い浮かべるだけでも、そこらのスーパーや魚屋で売っているわけもない、クエの頭と胃、ボウズギンポ、オオモンハタ、トモメヒカリ、ロウニンアジ、アブラボウズ……な私に隙はなかった。いいよもう、マグロとか、サンマとか、ブリとか、食う前から味分かってるもん。

 中国食材専門のスーパーに行ってみた、これも私にとっては日常のことなのだが、世の中の少なからぬ人たちにとっては、結構な大冒険感あふれるイベントであるらしいことは知らないことはない。しばしば訊かれたりもするが、彼らは不思議なほど足を運んでみようとはしない。たとえ口に合わないものを選んでしまったところで生じる損害などたかが知れているし、外れを引くのもそれもそれでいい話のネタだし、仮にも異国で商売を営もうとする人々が最低限のコミュニケーション言語さえもマスターできていないはずもないし、そしてもちろん会話を交わしてみれば、関わる気も起きないような卑しくてみすぼらしいそこらの量産型サルどもとは同列に並べるのも失礼なくらいまともな人々だし、例えばインド食材店なら豆やスパイスが冗談みたいに安く買えるというのに、でもなぜかハードルが果てしなく感じられるらしい。

 

 こんなことでも記事になるんだねぇ、と書籍なるオールド・メディアをパラパラめくりながらはたと思いをめぐらせる。本書の対極にあるもの、バズらせないと埋もれてしまうとの強迫観念に駆り立てられるまま、いつかは破裂する他ないインフレーションに猛進し続ける人々、つまり、ユーチューバーやインフルエンサーについて。

 私がYoutubeで見る動画ジャンルのひとつに、育児系のVlogがある。赤の他人のどうということのない日々の切り抜きに、発達心理学や幼児行動学の観察対象として、たぶん親が気づいていないだろう大ホームランがほんの時たま飛び出す。そしてそれらのアカウントの大半は、そんなまったり系では視聴者の関心を惹きつけ続けることはできないと焦るのか、あるいは単にプロモーションやマネタイズの誘惑のせいか、ほとんどの場合において、事実上ただの商品レビューへと変貌していく。結果、子どもたちが日々消費者として飼い馴らされていくプロセスを追うだけの、ほぼ何の見どころもない動画が量産されることとなり、そしていつしかクリックを忘れ、リコメンドの片隅へと追いやられていく。

 たぶん彼らは思うのだ、思わされるのだ、浜の真砂のごとき選択肢の中で人々を繋ぎ止めるためには役に立つ情報を提供しなければならない、と。確かにその方向性は間違ってはいない、世の生態系に鑑みればそんなコスパブタで溢れ返っているのは事実なのだから。

 その昔、19世紀のルイーザ・メイ・オルコットは、少なからぬ脚色を交えつつも、その何気ない家族の風景を小説にしたためた。その作品には、歴史の荘厳さもない、自然主義の批評性もない、しかし同時代人の心は確かに掴んだ、なるほど、こんなストーリーはどこにもなかった。日常系フィクションの嚆矢となる不朽の名作、『若草物語』がここに誕生する。

 あるいは17世紀オランダ、近代市民社会の勃興の中で、購買力を得た一般大衆が求めた絵画は、西洋美術史の王道を行く神話や聖書の宗教画ではなかった。彼らが欲したのもまた日常系、自らが見知りする光景を絵に封じ込めた風俗画だった。

 

 バズりを突き詰めた先に何がある、といって何もない。動員可能なマスによる統計学的に抽出可能な、単にラッピングを多少変えてみたというに過ぎない既存のコピペ的消費行動フォーマットだけがそこにある。

 万が一、新しいものがどこにあるかといえば、それは例えば自らが暮らす街の動線の死角、普段は通らない裏路地の、何を売っているのかも定かでない個人商店だったり、昭和から時の止まったような町中華だったり、やっているのかいないのかも分からないような喫茶店だったり。おそらくは私たちが専らそこで見出すものといえば、ノスタルジアすらも欠いた、映えるというより萎える何か、文字にする気も起きないような。

 スマホのカメラを起動しようとも思わない、SNSに載せようとも思わない、だからこそ時にその世界は誰もまだ見ぬワンダーランドに変わる。