墓のうらに廻る

 

 押し寄せては引き、また押し寄せてくるそれぞれの悲しみも、一日繰り返されていくうち、どれも徐々に小さく、静まっていき、斎場で通夜の準備が進む頃には、その人を故人と呼び、また他人から故人と呼ばれることに、誰も彼も慣れていた。

 人は誰でも死ぬのだから自分もいつか死ぬし、次の葬式はあの人か、それともこの人かと、まさか口にはしないけれども、そう考えることをとめられない。むしろそうやってお互いにお互いの死を思っている連帯感が、今日この時の空気をわずかばかり穏やかなものにして、みんなちょっと気持ちが明るくなっているようにも思えるのだ。

 よしなさいよ、縁起でもない。

 などと思ったところで、誰かがその言葉尻を捕まえて、親戚など縁起そのものじゃないか、それ以外の意味などあるのだろうか、などと言い出し話を複雑にする。縁起、縁起、とどこからか呟く声がさっきからしている。

 

 そして本書が切り取るのは、とある故人の通夜の場面。5人の子、10人の孫、3人のひ孫を残しての大往生。「誰が誰だか全然わかんねえよ」。それこそ冠婚葬祭でもなければそうそう一堂に会する機会も得られず、そこまで枝が広がれば、孫世代以降の顔と名前、係累や属性など誰も正確には把握しないし、しようとも思わない。

 孫娘のひとりの夫はアメリカ人、義理の父とともに息子を連れて親子三世代、近場の温泉で他の親戚も交えて裸のつき合いをする運びとなる。その彼、ダニエルは浴槽につかりながらはたと思う。「こうして通夜の日に身内の者がさほど哀しくもなさそうな様子で温泉に入っているのが、日本の風習としてどのくらい普通のことなのか」。義理の父、father in lawとの言い回しには決して込められることのないことばがふと気にかかって、当人に尋ねてみる。義理は感じるものではなく、果たすもの、そして結論する、「義理というのが感情よりも関係性によって自動的に生じるものとして考えられがちな」のだ、と。

 親類の中には、通夜の席に顔を出さぬ者もいる。

 そのうちのひとりは、故人宅の離れのプレハブに暮らしていた孫。何の明確なきっかけがあったでもなく、気づいてみれば、彼は学校からも、社会からも零れ落ちていた。世間的なカテゴライズでいえば引きこもり、ニート。とはいえ、彼は「卑屈であるわけでも、塞ぎがちであるわけでも、何かに熱中しているわけでもなく」、亡き祖父の面倒もそれなりに見てはいた。「河原かどこかで録音したと思われる水の音がざあざあとうるさく、その合間にアコースティックギターの音や合成されたと思しき電子ピアノの音が混ざっている」ような音源を動画サイトにアップしては、全世界から数千程度のアクセスを集める、そんな活動もしていた。

 別の孫の場合、通夜はおろか、ふたりの息子を両親に委ねたきり、かれこれ5年も姿を見せていない。典型的なアルコール依存症で、故人の妻の葬儀に際しても酒でひと悶着を起こした履歴を持つ。 「行方不明だというのは周知の事実だが、親戚の間ではその居場所はほぼ特定されていた。……引き起こす事件や面倒ごとについての報告や相談が、第三者を通じて親兄弟の誰かしらの元に届き、自ずと近況がうかがえることになった」。そして、その毛もろくずっぽ生え揃わぬ子どもたち――故人のひ孫――も、末席で酒をあおっては酔いつぶれる。

 

 この小説が捉える一夜に、何か劇的な事件が待ち受けることはない。顔を合わせたところから生じるふとした諍いから血みどろの惨劇に至ることもなければ、骨肉の相続争いが喜劇とも悲劇ともつかず展開されることもない。諸々の世間的トピックらしきものを埋め込まれた登場人物たちによる社会の縮尺模型が展開されることもない。

「たしかにあったどうでもいいことは、この世界にどのように残りうるのか。それともそのどうでもよさゆえに忘れられ、いつかは消えてなくなってしまうのか」。

 忘れえぬ決定的な何が起きることもない、従ってこの日の出来事も「誰かのどうでもよい記憶としてどこかで存在していて、やがて忘れ去られる」に違いない。なまじおぼろげに残ったとしても、「去年のことと一昨年のことがあべこべになったら、どこかで辻褄が合わなくなる」。

 故人もまた、そうした記憶の狭間を生きた。誰かを忘れ、忘れられ、誰かを見送る。そして見送られる番が来た。

 

 思い出せないのなら思い出せないでもう構わない。そうやってたくさんのことを忘れてしまって思い出せないのだし、もはや忘れたことすら気づいていない記憶がたくさんある。忘れてはいないのだが、もう死ぬまで思い出さないかもしれない記憶もあって、考えようによったら忘れるよりもその方が残酷だ。

 なにかを思い出すことはだからうれしいけれど、そんなに仔細に思い出したいわけじゃない。詳細になれば嘘になる。とはいえこうして具体的な場所が意識にのぼれば、いやおうなしに記憶は自ら記憶を掘りはじめ、穴や理由を埋めようとする。余計なことをしてくれるなと思うが、とめようがない。

 

 文体は三人称で貫かれる、ただしその視線は天よりのフィックスを意味しない。誰のものと明示されることもなく、しばしばアングルを切り替える。この日も、そしてどの一日も、主観と客観をないまぜにして、そうして記憶は現れた先から消えていく。

 記憶は生まれるのではなく作られる、そして風化していく。