すべての男は消耗品である

 

 本書は二冊の中編小説を収める。

 続編ということでも外伝ということでもない、しかし両者を対にして並べることでようやく作者の主題が浮上する。というか、先に書かれただし本テキストでは後ろに配置された「青いポポの果実」の補助線なくしては、表題作「骨を撫でる」を把握することはおそらく困難を極める。

 端的にそのテーマ性をあらわせば、母と娘、あるいは、女と女。「骨を撫でる」の主人公の中年女性、ふき子の夫に宛がわれたロールといえば、婿入りした家の二階にひたすらポルノ雑誌や写真集を買い込んでは貯めることだけ。「青い――」においてもその男性性は似たような構図を示す、ポルノの消費形態においては異なるものの、そしてそれは作品の核心に触れるため詳述はしないが、彼らもまた、ひたすらに女性を消費する以上の何かとして描かれることはない。

 そして女性が残される。「青い――」の主人公は昭和末期の小学五年生女子、ただし主語は「僕」、その単語が人口に膾炙するには程遠い時代における性同一性障害を綴ったものかと思いきや、どうもそうではないらしい。「僕」は母親を、あるいは成人女性全般を指してしばしば「雌犬」と呼ぶ。成長期を迎えて肉体が「雌犬」へと近づいていく、その拒絶感がヒロインのナナを「僕」へと走らせる。もっとも女子を性的に消費する存在としての男は、この小説の中では実のところ、さしたる存在感を示すには至らない。「僕」が対峙するのは、「あうあうあうあうあうあうあうあうああうあうあああ」としばしば奇声を発する「雌犬」ことママであり、あるいはナナを何かと目の敵にしてくる別の「雌犬」こと担任の女教師である。

「僕らの家にないもの。パパとママには作り出せないもの。僕らに実体験として欠けているもの」としての「団欒」、その冷徹を極大まで突き詰めた存在が、小一の妹、千由。あることを契機に姉妹は決別を遂げる。「軽蔑している。実行力のなさ、意思の弱さ。助られておめおめと帰って来て。無様だと思っているにちがいなかった。作戦の失敗こそ、千由は最も嫌うから。お互いがそこに存在しないかのようにふるまう。まったく目に見えないものとして。ガラスが挟まっているように、静かに千由と別々になっていった」。

 

 そしてこの功利計算マシンのような千由の対極に坐するのが、「骨を撫でる」におけるヒロインふき子の母、敏子。白血病に蝕まれた肉体でなおこの敏子は、ふき子の弟、実の息子の明夫を溺愛してやまない。生活費を援助する、孫の学費も全額背負い込む、それでもなお飽くなく家財を食いつぶし、果ては病床の財布から数千円さえも抜く始末。

「なんでて、それが明夫でそれがお母さんやんか。

 それだけの話だ。いいかげんで、空虚、情に流されやすく、その場限りのつまらない嘘をつく。敏子の性分。母譲りの性質だ。骨の中に満ちた髄液からじゅんじゅんと血管に送り込まれる。その血と一緒に、心まで壊れている」。

 たぶん、「骨を撫でる」だけを読めば、共依存的な母と息子のどうしようもない理不尽さを描いた、ただそれだけの小説にしか見えないことだろう。

 えっ、それで? それが私の読後の偽らざる印象だった。違うのだ、と「青い――」を通じて気づかされる。この小説においてふき子に割り振られた機能は、半ば当事者、半ば第三者的な視点からこの歪んだ親子を実況するナレーターではない。

「この母の、背中の骨の、いびつさ。独特のとがり具合。似通ってる。同しや。その一つ一つがまぎれもなくふき子自身と同じものが固まって出来ていた。軽率で、打算だらけで、飢餓に近いくらい満たされなかった。明夫が家のお金を浪費し、敏子がそれを補おうと奔走するのを、ふき子は指をくわえて眺める。これまで何度も倉木の家で繰り返されてきたことだ。そのひもじいような関係を、性懲りもなく続ける。なんでやろ。そんなもん血ぃや。そう敏子ならこともなげに言うだろうか」。

 リウマチでひん曲がったその指で、ふき子は母の骨を撫でる。これはやはり、あくまでクズの記号を超えない弟を媒介にした母と娘、女と女、あるいは「雌犬」と「雌犬」の物語なのだ。