そうだ ネパール、行こう。

 

 大工道具や書籍、先祖から受け継いだ絵画やアンティーク家具。これらすべてよりも価値のある、私の所有物の中でもっとも貴重な品物は、自宅に隠してある自殺キットだ。これは私のお気に入りの冗談である。……

 認知症の初期症状(ひょっとしたらそれはすぐに起こるかもしれない)を目の当たりにしたとき、あるいは脳外科医という職業柄よく知っている悪性脳腫瘍のような不治の病いがはじまったとき、私は自殺キットの中にある薬物を使うだろうか? 正直に言って、自分でもわからない。……まったく相入れない考えを抱くようになるのだ。私たちの中のある部分は、自分が死につつあることを感じ、それを受け入れる。ところがそれとは別の部分が、自分にはまだ未来があると感じ、考える、まるで私たちの脳というハードウェア、少なくともその一部には希望があらかじめ設定されているかのようにして。……

 よき医師は死にゆく患者の不協和状態にある自己のどちら側にも語りかけるだろう。死にゆくことを知っている側にも、まだ生きようと希望を抱いている側にも語りかけるのだ。よき医師は嘘をついたり、患者から希望を奪い去るような真似はしない。たとえあと数日間のいのちという希望しかなかったとしても。けれども、それは難しいことなのだ。たくさんの長い沈黙を伴う、長い時間が必要となる。

 

 このテキスト、邦題の通り、とにかくやたらと死が出てくる。

 もちろん、それは脳外科医という筆者の仕事の性質が大いに関係している。相当数のケースにおいて実のところ、「私たちがしたのは、彼女が亡くなるのを遅くしたということだけだ」。筆者は時に葛藤する、手術を通じて「私たちは人間の苦しみの総和を減らしているのだろうか? それとも増やしてしまっているのだろうか?」

 本書内にあってとりわけ印象深いことばが、筆者の長年の友人にして母国の保健大臣まで務めた医師の口から放たれる。

私はバイクに乗る人にヘルメット着用を義務づけたんだ。そうすることで、神経外科医として救ういのちよりも多くのいのちを救った

 

 そもそもにおいて、世の医療幻想とは隔たって、手術室に運び込まれた患者に対してドクターができることなど限られている。

 事件は現場で起きてるんじゃない、会議室で起きてるんだ。本書があまたの死の風景を通じて伝えるのは、臨床の向こうに透ける医療行政の破綻の風景。

 あるとき筆者は長年勤務したロンドンの国営病院に三下り半を突きつける。マーガレット・サッチャー以降のバウチャー制度の矛盾は、筆者の現場を容赦なく直撃した。このシステム下では、「緊急手術の目標値を超えたら、支払い額の30パーセントしか入ってこない」。設計した経済学者に言わせれば、「緊急事態ではないのに病院が緊急手術にして、過剰請求するのを止めるため」。医療資源への割り振りは制限される一方で、余剰金が出ればその分はスタッフ雇用に回すように仕組まれてもいる。結果として、ナースステーションの顔ぶれはコロコロと入れ替わり、連絡系統も信頼関係もズタボロに。言語療法士はマニュアルにある通り、不要な患者にまでも鼻チューブを一律に強制する。

 アメリカでワークショップに招待される。その「病院は複数のタワーで成り立っている。巨大なロビーやホールが無限に続くかのように思えるような場所を通っていく。病院には13階建てのホテルがあり、……窓から外を見ると、目に張るのは病院ばかりだった。どれもこれもガラス張りのキラキラした建物が、まるで山脈のように遠くまで続いていく」。それほどまでに贅を凝らした潤沢なリソースを持ちながら、しかしそのパフォーマンスは他国との比較において決して芳しいものではない。それどころか、『絶望死のアメリカ』による限り、医療費による家計の圧迫はむしろ国民の死を促進してさえいる。数十万ドルの実習用の医療機器に囲まれて、麻酔をかけられたブタとともに鎮座するのは、胴体部分を切り落とされた人間の生首。どこから調達されたのか、「見たかぎりで言うと、亡くなるまで彼はそれほど年を取っていなかった。あるいは年を取る前だった。どんな人だったのだろうか? どんな人生を送ってきたのだろうか? そんなことを一瞬考えずにはいられなかった。彼にもかつては目の前に未来が広がる子ども時代があったはずだということも」。

 ネパールで直面するのは例えば市井に広がる果てしない無知。「家族の大半は教育も受けていない。脳の損傷のことなんて何もわからない。絶望的なまでに非現実的なんだ。患者が生きてさえいれば、回復するかもしれない考えている。たとえ患者が脳死状態であってもね。それでも受け入れようとしないんだよ」。病院で死を迎えようものならその矛先は医師へと向かい、逆恨みから暴力や放火をちらつかされるくらいは日常茶飯事の光景となる。これらの国では「政府の腐敗が多くの人に認識されている。当然のことながら、人々は税金を払いたがらず、税金の支払いを逃れるためだったら何でもする。/……税収が少ないということは、……国の利益になるはずの医療やインフラの計画に使えるお金がほとんどないということを意味する」。

 

 そして筆者は知己を頼ってウクライナの地に足を踏み入れる。彼は柳の木を指さして嘆く。

「『ここは可能性の失われた国なんです。第一の問題はロシア、第二の問題は腐敗したウクライナの官僚。みんないなくなってしまいます』。つまりは野心や活力を持った若者が外国に移住してしまったということだ。『私はこの国を愛しているし、憎んでいる。だから木を植えるんです』」。

 そして筆者が気づかされたのは、変わり果てた彼の姿だった。

「ここはウクライナなんです。愚かな人々で、愚かな国なんです」。

 信頼不可能な社会を生きる彼は、孤独に蝕まれた果て、「私が全部やらなくちゃいけないんです」とパターナリズムエスカレートさせていた。スタッフたちを怒鳴りつける声が廊下に響く。筆者は思う、「本当に必要な手術だったのだろうか?」と。

「ベテランの医師は自らが有する権力によって、それに権力に対して真実を述べてくれる人が周囲にいなくなることによって、簡単に堕落してしまう。……/そのために重要なことがある。自分の間違いを見抜く力に関して優れているのは、自分自身よりも他者の方だと理解するということである」。

 そんな「他者」を持てない社会、法の支配を持てない社会で、どうして人の命が救われようか。あるいはこう問い直すべきなのかもしれない、そんな他者への安心なき社会など生きるに値するのか、と。

 

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