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 本書では、「ジェントリフィケーションの激化」「GAFAに代表される情報通信ハイテク産業の急成長」「ラストベルトの旧煤煙型都市の復活」、そして「郊外の変容」を切り口に、転換点に差しかかったアメリカ都市/社会を考える。……

 本書では、「スーパースター都市の光と影――そして「影」が濃くなる」「ラストベルト都市がブーミング都市(人気急上昇)になる」「郊外がリベラル化する」等々、幾つかの仮説を提起し、データと事例を基に検証する。……

 アメリカ社会を論じたり、ルポルタージュしたりする日本語の書き物には、負の側面を取り上げてアメリカを叩き、「アメリカは酷い」という文脈に終始するものを散見する。本書はその立場を取らない。どの社会にも「光と影」がある。アメリカにも過ぎたるを再考し、正す動きがある。再生や復興を目指す政策や活動がある。対抗力である。アメリカは多くの難問を抱えているが、それでもなお、21世紀前半はアメリカの時代である。そこにアメリカ都市研究の意義がある。

 

 ジェーン・ジェイコブズ、ハンパない。

 数年前に『アメリカ大都市の死と生』を読んだ際、たまらなく刺さった箇所がある、というよりもその衝撃の強さゆえ、お粗末にも他のポイントを覚えていない。

 それは再開発批判をめぐる文脈でのこと、彼女がその論拠のひとつとして掲げたのが、家賃の問題だった。所有者サイドからしてみれば当然、新しい物件にはその投資に見合ったリターンを要求したくもなる。衛生面や建築強度等のアドヴァンテージに鑑みても、なるほど理に合わない話ではない。

 しかし、とジェイコブズは舌鋒鋭く指摘する、そんなテナント料を新規ベンチャーは負担することができないし、高騰した周辺住居にはその従業員が暮らすこともできない、従って、イノヴェーションを呼び込むためにこそ、相対的に安上がりになる古い物件が大都市圏には必要不可欠なのだ、と。

 

 本書の議論は、ジェイコブズのこのリアリズムの重力圏で展開される。

 ラストベルトの荒廃に基づく取り残された人々の怒りが、2016年の大統領選挙を呼び込んだ、とここまでは日本でもしばしば紹介される話。しかし他方で、一度は繁栄に酔いしれ、そして朽ち果てたかつての都市に再び人と産業が戻ってきている、という報はなかなか届くことがない。もちろん、この一連のカムバックはフォーディズム型単純労働の誘致によってもたらされたものではない。

 その典型をミシガン州デトロイト市に観察する。周知の通り、かつて自動車産業でこの世の春を謳歌した水辺の街は、2013年に財政破綻の時を迎えた。その盛衰は人口統計が如実に示す。1950年代に全米4位の185万を擁したのも遠い昔、以後、基幹産業の構造不振による流出は止まらず、やがて「最も危険な都市」との烙印を押される。しかしここ数年、その低落がどうやら底を打ち、下げ止まりの兆候を見せる。この運動は逃げ出すことすらできなかったトラッシュが取り残された結果ではない。新たな成長産業の萌芽を筆者はそこに見る。

 廃墟と化した歴史的建造物を買い叩き、リノヴェーションを施しただけではない。そこに息を吹き込むのは、地元に根を張る名門大学、インターン時からのリクルートでプロスペクトを囲い込んだスタートアップ企業が彼らの能力をアピールポイントに投資を呼び込む。ひとたび雇用が正のスパイラルに入ってしまえば、自ずと他地域からも「創造階級」が流入してくる。既存の勝ち組が縮小再生産を繰り返すだけの、硬直化を運命づけられたジェントリフィケーションとは対照的に、一度は死したはずの街が、その朽ちたインフラなればこそ新たに生まれ変わることができる。

 

 まさしくジェイコブズの慧眼が成就――したかに見える。

 しかし、その行く末はスーパースター都市に限りなく似る、つまり実際には、トリクルダウンなど起きやしない。確かに本書が紹介する通り、部分的なおこぼれに授かる人々もいる。それなりに高所得を稼ぎ出すだろう彼らに余暇を提供すべく、飲食やショービズやアパレルなどが進出し、街に彩りを加えている。

 といって、そのシートに着席できる人間の総数など、そもそも限られている。天空の城と化したモンスター企業が地上に金を落とすべき論拠は悲しいほど乏しい。LAで人並みに暮らそうとすれば、今や世帯年収最低15万ドルは必要、などと喧伝されるものの、当のロサンゼルスやカリフォルニアの財政は火の車。高騰する賃料などがもたらす外部不経済の結果、ベーシック・サービスが維持できなくなったとしても、彼らは国外を含めた他の自治体に逃げ出すなり、最悪、自社向けのゲーティド・コミュニティを築いてしまえば用は足りる、その表向きのコストはおそらく法人税等を真正直に負担するよりもばるかに安い。それどころか現実に起きていることとしては、ゼロよりはまし、との妥協の末、むしろ自治体は企業に金を吸い上げられてさえいる。その誘致予算を確保すべく削られていくのはもちろん、教育、医療、福祉……。

 

「ブルックリンの街角には、ボデガ(食料雑貨店)がある。ブルックリンの街風景には欠かせない。ヒスパニック系か、中東系の家族経営が多い。24時間営業である。ボデガはコミュニティ・ネットワークの要として大切な役割を果たしている。……驚いたことに、ボデガが客の家の鍵や、オフィスの鍵を預かっている。共稼ぎ夫婦の場合、子どもが鍵を持ち歩かなくても済むように、あるいは事前に不在がわかっている時には、来訪する客や親戚に鍵を受け渡すために、ボデガが近隣住区に暮らすか、界隈で働く客の鍵を預かっている。手間賃などは取らない。こうした鍵の預かりには、信頼のコミュニティ精神が生きている。ブルックリンの古いコミュニティでは、そうした伝統的な社会的関係資本が成立している」。

 まるで映画の世界を見るような、ジェイコブズが描き出したようなこの光景は、しかし、再生都市群でリピートされることはない。ポスト・モータリゼーションを生きる者は、もはやタウンシップに帰ることはない。アメリカンZ世代といえども、おそらくはその例外にはなれない。

 

「郊外暮らしのアメリカ人は、日常、会社と家庭とそのコミュニティから一歩も出ない。お決まりの生活を続け、交際範囲はおそろしく狭く、浅い。……税金を払うのを厭わないが、払った税金が他人のために使われるのは嫌だ、というのが郊外気質である。……税金を払うことの見返りに、地方政府に対しては、自分の財産価値を守る施策ばかりを要求する。そこにあるのは、地域エゴの塊である」。

 夕暮れ時、そんな一節を郊外とも少し違うベッドタウンの地元カフェのテラスで読む。焙煎の香りに釣られて幾度となく素通りしていたその店にふらっと入る。一目で分かるオタク・メンタリティ全開の、いかにも神経質なバリスタ店主が淹れたコーヒーを飲みながら、視線を路上に送る。低層安普請のビルとマンションで覆われて空はもとより見えやしない。駅周りの動線からは微妙に外れた場所かと思いきや、往来は案外と活発で、片側一車線の住宅街をやたらせわしなく自動車、自転車が駆けていく、なるほど暇を持て余した警察が定期的にネズミ捕りを張るわけだ。行く人行く人、うんざりするほどにアースカラーかモノトーン、時の止まった学校指定ジャージは絶望的なまでに垢抜けず、色のない街は否応なしにテキストへの没入を促す。

 バブルの失敗からひたすら目を背け不動産本位制を令和にまで持ち越した末、インフラはある、インフラしかない、知性はない、つまり、本書の定式にならえば、この国の錆が拭い落とされることはない。

 そんなことより、堕落の果て、焼け野が原にてこれからの社会関係資本の話をしよう。

 

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