もうすぐ絶滅するという紙の書物について

 

 私の頬の下にあるのは、恋愛小説の原稿。男と女が出会い、男は結婚していて、女には彼氏がいるという物語……。7ページ読めば、あとは読まなくてもわかる。はっと驚かされるような場面は出てこないだろう。ずっと前から、新たに読むというよりは再読。繰り返される「新作」、巡りくる季節、秋の文芸賞レース、当たっては外れ、そしてまた外れる。リサイクルに出す紙の山、時代遅れになった新作を満載し、朝に出発して、夜に帰ってくる何台ものトラック。

 これは傑作かもしれないという思いに喜び勇んで、新人のような気分で月曜日に出社することがなくなって何年になるだろう。

 

「私」ことデュボワはパリの文芸出版社の編集者にして社長。その所有企業の命を受けて天下ってきた会長が、世界中いずこも同じの書籍不況からの打開策を揚々引っ提げて宣うことには、「『売り上げが15千部に達しない本を出さない。こうすれば、収支のバランスが取れるのです』」。

 いかにもコンサル崩れにありがちな戯言に、平手打ちの衝動を辛うじてこらえて、懇々と諭す。

「その本が15千部売れるか売れないかは、出してからでないとわからないものなのです。知るべきことがあるとしたら、それは読者の動向です」

「前もって市場調査すればいいではありませんか」

「一回の市場調査にどれだけ金がかかるか、ご存じですかな、ムッシュ・ムニエ。べつに調べなくてもけっこう。本の価格の3倍の費用がかかります。そこで本が売れるかどうかを見るために本を出してみるという悪しき慣行がまかり通るようになったわけです。それが出版業と呼ばれるものであり、それが私の仕事だということです」

 

 今なおランチタイムとなればレストランに繰り出しては、手の込んだ料理にワイン片手に舌鼓を打ち、そして午後の仕事に向かう、そんな古風な男のルーティーンにある変化がもたらされる。

 差し出されたのはタブレット。それまでは週末ともなれば、まだ見ぬ傑作の夢とともに原稿の束を携えて郊外の片田舎に向かい、そして決まって失望とともに月曜の出社を迎えるのが常だった。それがこれからは厚さ数センチ、重量730グラムの1枚の板切れで事足りるという。「ユゴーヴォルテールプルーストセリーヌ+ルーボー」でも730グラム、基本的な文法所作すらままならぬ廃棄物が容量いっぱい詰め込まれても730グラム、データを空にしても730グラム。

 そして「私」はあるとき、若手社員をかき集めて新たなプロジェクトを立ち上げることを決める。彼らのひとりが言うことには、「今面白いのは、スクリーンに映し出すための新たなジャンルのテクストとして、何でも提案できることなんだよ」。

 何はともあれはじめてはみたこの新規事業、出だしは決して悪くはなかった。

 目玉としてなんとあのノーベル賞作家、ル・クレジオが毎日アップデートのなぞなぞアプリに参加。その仕掛けにもメディア特性が存分に生かされる。まずは彼の第一言語クレオールで出題、意味が分からなければフランス語翻訳をクリック、仮に紙ならばボリュームが2倍になっているところでも、デジタルならばその質量は変わらない。「今日の詩、今日の思想、格言、詩の形にした星占い」、そんなコーナーも好調だ。

 あるとき、編集者としての「私」は夢想する。いっそ「さまざまな作品がすべてタブレットに収まり、誰もが好きなように原文を修正できるようになったらどうなるだろう(中略)たとえばプルーストのマドレーヌをどこでも売っているサブレのLUに取り替え、黒衣婦人の香りは紅衣婦人の香りに書き換え、ポーリーヌ・レアージュのめくれ上がったスカートはきちんと整え」る、とか。

 でも結局――「ただたんに私は生きていて、本が読みたいだけだ」。

 

 筆者自身によるあとがきによれば、本書原文は定型詩セクスティーヌの形式に従って書かれている、すなわち「同じ数(6)の詩節と、各詩節同じ行数(6)を守り、脚韻を循環させ」ている、とのこと。各章の末尾も6つの単語を循環させている。さらに章ごとの文字数も「いずれ死すべき人間の運命を語るにふさわしく」自然減を辿る。最初の詩節はすべてスペース込みで7500字、ラストは2500字、トータル18000字からなるという。

 もちろんこんなフォーマットの遵守を手原稿で生み出そうなれば、それこそ紙がいくらあっても足りない。正確な字数のカウントさえも人間ではままならない。既にこの書式からして、デジタルの恩恵なくしては成り立たない。

 それでもなお、紙媒体でなければならない何かを説得する、その成否に本書はかかる。

 末期の癌に蝕まれたパートナー――それこそ数万回聞いたことのあるような設定――とともに向かったロンドンの地、「私」には「日差し」を求めての気分転換の療養の他に目当てがあった。プリント・オン・デマンドのマシン。とうに絶版のかかったテキスト・データをタブレットから落とし込み、本とは似て非なる何かへとかたちを与え、そして伴侶へと送る。

 このサプライズ・プレゼントに何を感じるか。電子書籍じゃいけないの? と思うか、現物じゃなきゃいけない! と思うか。あるいはその問い立ては近未来に彼女はアバターとして少なくとも「私」と同じだけの命を得ると思えるか、あくまで彼女には一回性の生しか与えられていないと思うか、に似ているのかもしれない。

 

 そして本書を彩るのは、偽悪的なまでに詰め込まれたフランス流儀の皮肉と、そして失われゆく時代を象徴するだろう美食の数々。

 

 真昼間から「私」がかじりつくは、「孤独の野菜」アーティチョーク。人前では食べにくいが、ひとりだと最高の一品になる。もの思う野菜、ものを作る人のための、グルメのための野菜だ。最初は固く、多肉質の部分があって、やがて徐々に、より柔らかく、より繊細な、より緑の薄い部分が出てくる。最後のほうの紫色の葉が集まっているとんがり帽子をむくと出てくる干し草のベージュ色に至るまでの絶妙のグラデーション。繊維質の変化に応じて、その味を更新するヴィネグレット・ソース。それぞれ思い思いのリズムで道のりをたどればいい。アーティチョークには押し付けがましいところが全くない。数分間にわたって、一枚の葉を苦みが出てくるまでしゃぶりつづけてもいいし、その逆に立て続けに何枚の葉から前歯でこそぎ取った粘り気のある果肉を口いっぱいに含ませてもいい。たったひとつやってはいけないのは、食べすぎることだ。それ相応の優雅さが求められる野菜なのだ。そして最後にとっておきの楽しみの時がやって来る。アーティチョークの根もとを親指とナイフで挟みつけると、そこに密生している繊毛が小さくまとまった房になってばらけ、その奥からこの野菜の実に愛らしいミニチュアのようなものが顔を出す。いよいよご褒美の時だ。フォークとナイフでこの野菜の芯に分け入ることができるのだ。これを育てた園芸家がそこに粉末肥料のいやな後味を残していないことを祈りつつ。

 そのときすかさず、マダム・マルタンが小さなガラス容器に入った追加のソースをテーブルの上にそっと置いていく。生クリームをほんのちょっぴり垂らして、心持ちまろやかにしてある特製ソースだ。

 

 原文はこのくだりも当然に韻律を守って書き上げているに違いない。

 そんな労苦を能動的に引き受けるのは人間だけなのか、あるいはAIは条件付けを訳もなく満たした末に文学史をはるか凌駕するテキストを仕上げてしまうのか。

 

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