石を黙らせて

 

 本書では、語ることの障壁を突き止める一方で、まさにその障壁を――他者と力を合わせることで――克服可能なものだと主張したい。この二重の主張は、奇妙で古臭く思われるかもしれない。一方では苦しみと暴力の作用を強調し、それらが被害者を不安に陥れ、彼らに精神的な打撃を与え、傷つけるさまを描き、苦しみと暴力とが被害者の想像を超えること、世界に対する信頼と、「それを描写する」能力を損なうことを主張しながら、他方では、伝えること、誰か他者に打ち明けることの可能性を強調し、「証言を通して非人間化された状態から回復する」という課題に光を当てようというのだから。

 

 この二重性は、現代社会において当然のように信じられているふたつのテーゼへの疑念を表明するものだ。第一に、目撃者がプロであれ素人であれ、目撃証言することは簡単だというテーゼ。……

 そして第二に、上記のテーゼの対極にあるともいえる、「描写できないもの」「語りえぬもの」があるというテーゼ。すなわち、ある種の犯罪、ある種の経験は、語ることが不可能であり、語ってはならないという姿勢だ。

 

 本書内、おそらくは多くの読者に非常な印象を残すだろう証言が刻まれる。それは筆者自身が旧ユーゴ兵士のアデムから聴取したインタビュー。

 コソボ系の彼はドイツへの亡命を申請するも、いくつもの機関をたらい回しにされた末、最終的に却下され「自由意志で」故国へと戻るように命じられた。空港の入管で発見された亡命申請書類は「反国家活動の明白な告白だった」。

 と、そこで異変が起きる。「傷がついたレコードに落とした針さながら、アデムの話は常に同じ場所で軌道から外れた」。彼の話は再び逃避行のはじめへと戻り、そして再入国を余儀なくされたあたりにさしかかると、また頭からストーリーはリピートされるのだった。まさに録音を聞くように、脱出前に買い求めた真新しい靴の話も丁寧に繰り返された。他にもいろいろと携えていただろうにもかかわらず、それは決まって靴だった。

 同じ話に筆者は寄り添い、「やがてついに、一息に虐待の話に着地した。まずは空港で、その後移送されたベオグラードで拷問を受けた。セルビア政府は、簡易裁判によってアデムから国籍を剝奪し、その後彼を殴り、辱め、痛めつけて、再びドイツ行きの飛行機に乗せた。『自由意志による』出国から二週間後、ぼろぼろに引き裂かれたシャツを着て、血まみれで腫れあがった顔と体で、アデムはデュッセルドルフの空港に到着した――足には靴下しか履いていなかった。靴は、失ったばかりの故国で拷問吏に取り上げられたのだと、アデムは言った」。

 彼は付け加えた。

「『いや、ドイツで新しい靴を買っていったんですけどね。高かったんですよ』

 こうして、ここで突然、それまでどこにもつながらなかった糸が再び現れる。そしてようやく話の流れの中に収まり、意味を成すのである。……

 身分証明書を持たず、靴も履かずに、古い世界に到着した血まみれの汚れた難民であるアデムは、かつての自分にしがみつく。すなわち、『百マルクの新しい靴』を買うことのできた自分に」。

 ジャーナリストとして数多の限界状況に耳を傾けてきた筆者は言う。

「つまり、語りの混乱は、例外的状況への反応というよりは、むしろまだ破壊されていない人間の表出だと言える。この破壊された世界で自身の身に起きたことをいまだ理解できず、描写できない人間は、まだ人間としては破壊されてはいない」。

 

 このテキストに前後して、ある種の合わせ鏡のような小説に出会う。

 李龍徳『石を黙らせて』。その主人公はかつて犯したレイプの記憶を打ち明けて回る。まずは婚約者に、次いで共犯の親友に、そして家族に、あるいは別の共犯者に。主人公は併せて自らのその過去をネット上に本人のみ実名で告白し、挙手してきた名前すら持たない被害者に対してはありうる限りの補償をする覚悟でいる。

 ネタバレをすれば、結局、小説の中で、主人公が被害者とまみえることはない。一流企業の職も辞して、暴飲暴食の自堕落な昼夜逆転生活を送るも、そうした自傷行為ナルシシズムの表象と切り捨てられてしまえば、確かに返すことばもない。周囲からの反応として戻ってくるのは一様に、被害者とて今さら時効切れの古傷を掘り返されたところで得られるものなの何もない、といったもの。贖罪を乞うたところで報われるのは強姦犯の半ば忘れかけていた罪悪感でしかなく、主人公はひたすらの自己撞着を繰り返す他ない。

 この小説の加害者の記憶もまた、ループを繰り返しているのかもしれない。あるいは彼には行為それ自体の直接的な生々しい残像はなく、もしかしたら脳裏に延々と描かれているのは、そこに至る以前の、そしてまもなく忘却へと追いやった後の、「まだ破壊されていない人間の表出」なのかもしれない。『石を黙らせて』が描き出すのは、その罪から決してブレイクスルーの解放を得ることのない、現代的な自己参照モデル。ブログ上の未だアップされざるテキストは、何ら彼を次なるディメンジョンへと導いてはくれない。たとえ仮に実の被害者が名乗り出てあまつさえ互いに向かい合ったところで、そして万が一いかなる慰藉のことばを受けたところで、彼が赦しの感覚にたどり着くことはおそらくはない。なぜならば、本書が刻むのは、そのような他者なき時代を生きる人間の肖像なのだから。

 

 

 改めて『なぜならそれは言葉にできるから』に話を戻す。

 あるいは被害者が「『とても言葉にできない』または『表現できない』とされるものを伝えるには、ただ囁くしかないのかもしれない。拷問、暴力、屈辱、強姦については、つっかえながら、口ごもりながら、断片的に語るしかないのかもしれない。痛みを覚えながらでなければ思い出せないことや、恥を覚えながらでなければ告白できないことを語る際には、ところどころ空白もあるかもしれない。だが、まさにだからこそ『それ』は言葉にできるのだ」。

 いかんせん晦渋なこのテキストは、そのメカニズムを解き明かしはしない。しかしおそらくは筆者が暗黙に主張する断片は与えられている。

「こういった会話によって自身のアイデンティティを証明せねばならないのは、『殴られなかった者』、被害を免れた者、子供や孫など次世代の人間でもある。すなわち、加害者や被害者の物語を、語られない物語を含めて引き継ぐ我々だ」。

 聞き手の想像が「空白」を埋めて「それ」を完成させる、そんな美辞麗句に逃げ込むことを筆者はしない、ただし、聞き手が聞き手として「引き継ぐ」ことを示すことで語り手は、皆が皆とは言わずとも、そこに「社会への信頼」を見る、そしてそこに新たな語りが生まれる、彼らの時間が流れはじめる。

 歴史問題がなぜに語られ続けねばならないか、それは単に真偽を明らめ責任を論じるプロセスにとどまらない。たぶんそのような指標のみに従えば、「空白」だらけで時系列も往々にしてねじれた語り手たちにはその居場所すら認められないことだろう。語る場を持つ、聞く場を持つ、そうして生じる「信頼」こそが「それは言葉にできる」ことの正体に他ならない。その場に生まれる「言葉」を信頼すること、それこそが社会の社会たる所以をあらわす。

 twitter140字では埋めきれぬ「空白」を誰が互いに詰めようとするだろう。あるいは例えばFacebookの「いいね」が作る「空白」、何がどう「いいね」なのかを誰がまともに問おうとするだろう。手前勝手に書き散らせる、その一方的な快楽の他に彼らは何も求めない。

 

 社会は言葉でできている、その条件が満たされている限りにおいて、確かに「それは言葉にできる」。

 

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