ぼくは物覚えが悪い

 

 あの、ですね。つかぬことを、おうかがいしますが。

 あい。

 いよいよだ。いよいよ、くる。決定的な、なんかが。

 カケイさん。

 あい。

 カケイさんは、今までの人生をふり返って、しあわせでしたか?

 ああっ?

 カケイさんの人生は、しあわせでしたか?

 とつぜん。人生がおわった人に言うみたいに、たずねられる。過去について考えさせられる。しかも自分の。兄貴の過去や、広瀬のばーさんやなんかの人生については、てきとうにこたえられる。あの人らは波瀾万丈だから、しあわせじゃないけども、きっと後悔していない、ってこんなふうに。無責任にスラスラ言える。けど自分の人生についてしあわせだったかとたずねられても、考えたことがないから、正直言って、わかんない。

 みっちゃんおかおを、じっと、見る。みっちゃんは、しんけんそのものだった。

 仕方ない。自分の来し方を、そのまんましゃべってやろう。

 

 主人公の「あたし」こと安田カケイは、自身で曰うところ「半分、死んでる」独居老人。昨日今日のできごとについては靄に包まれたように漠然と、しかし昔のこととなれば鮮明に蘇る。

 デイ・サービスの介護士たちを誰彼構わず「みっちゃん」と呼ぶ。ぱっと見は認知症の典型記述、しかしその履歴には、なぜに「あたし」が一律のそのアプローチに固執するのか、その理由が横たわっていた。

 

 この小説の終盤、妙な既視感に苛まれる。

 スザンヌ・コーキン『ぼくは物覚えが悪い』。

 このテキストの主人公は、脳手術の結果、記憶機能に欠損を負わされた患者H.M.ことヘンリー・モレソン。ある移動中の車内の出来事、ファストフードの包み紙に気づいた彼が幼き日の思い出を語りはじめる。間もなくそのエピソード・トークは終わり、数分の沈黙の後、彼はまたしてもそのラッピングに反応して、全く同じ話を披露する。

 確かに、海馬の除去を境に、彼からは短期記憶が失われた。日常会話的な用法に従えば、ヘンリーには記憶力はない。しかし、それは彼が一切の記憶機能を奪われたことを必ずしも意味しない。貴重なサンプルとして日々行動実験に付き合う彼は、与えられたミッションをおそらくそれと認識することなく反復させられる中で、明らかに学習と認められる進展を見せる。彼は一連の単調な治験をめぐるエピソード記憶を持たない、従って、コツやチェックポイントを瞬間言語化したところでそれを引き出すことはできない。しかし、彼のいずこかに染みついているだろう記憶を身体は紛れもなく表現してみせる。

 

 そして『ミシンと金魚』の「あたし」もまた、肉体に刻み込まれた習い性をやがてあらわすことになる。

 ろくに学校にすら通わせてもらえなかった彼女は、ばあさんの言いつけを守り、独学で読み書きを覚える。

「あんた……あんたね、まだ間に合うから、お姑さんにたのんで新聞とってもらいなよ。それでまずカタカナ練習して、ひらがなやって、簡単な田んぼの田とか山とか川とか、古新聞にどんどん書いて覚えて、そしたらこんだルビふってあるむずかしい漢字練習して、そのうち全部だいたい読めて、書けるようになる」。

 やがて彼女は、震える手で最後のとある手紙を綴る。日々ほころび落ちる記憶の傍ら、自由の利かない身体にあってなお、自らにしみ込ませた文字をもって、人知れず積み重ねた学習の成果を証明する。何を書いたかではない、書いたということそれ自体にまず震える。そしてそこにヒトのヒトたる所以を見る。

 もちろんここで、とりわけ死へと向かう老人にあって、曖昧極まる記憶に比して文字という記録はひとまず残る、なんてかったるい話がしたいわけではない。この小説が描き出すのは、時に固定観念的なまでに無知無学な貧困家庭の軌跡であり、その人身御供に捧げられるのは当然のように専ら女性である。ファミリーヒストリーによって半ば決せられた運命を、「あたし」は読み書きによって変えてみせる、たとえそれが晩年のはかなき一歩であろうとも。

 学ぶことで世界は変わる、いや、学ぶことでしか世界は変わらない。

 

 果たして本書の記述が、脳に衰えを来した老境の内面描写としてどれほど的確なのかなど、私には知る由もない。しかし、知をもって自らに定義を与えたホモ・サピエンスhomo sapiensが、己が己たる所以を失いゆく中で、文字をもって最後にそのきらめきを垣間見せる。

 本書は決して死にゆく人間をめぐる記録ではない、人間を人間たらしめる記憶についての小説である。

 

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