「人生は1本の竿に如かず」

 

 本書は、『月刊つり人』に20146月号より、いまも連載している『釣本耽読』のうちから、50人の著作50冊を選び、加筆訂正をして単行本化したものである。

 古今東西の釣り好きたちが著した釣本の森に深く足を踏み入れていくと、そこには単に釣りという趣味の世界があるだけではなく、人生のすべてがあり、また時代や文明があり、戦争や災害があり、愛と憎しみ、喜びと哀しみ、感動と落胆、希望と絶望、そして生と死とがちりばめられていて、歩いても歩いても、まだ歩きたくなるような興奮がある。

 それは、魚の釣れるポイントを求めて川をたどり、磯を渡り、また広海へ漕ぎ出る釣り人の高揚感と似ており、そういう釣りという人生の万象を読者に伝えることができれば本望である。

 

 釣りを嗜むこともない、もちろんそのようなジャンルの本棚を意識的に探ったこともない、『釣りの名著50冊』というタイトルを見て抱いた第一印象といえば、そんなにあるの? というぶしつけなものだった。冷静に考えれば、時代時代の釣り方のマニュアルとかでそれくらいを埋めることくらいは訳がなさそうなものだが、表紙に刻まれたそのラインアップを見る限り、そうした風合いのテキストでもないらしい。

 そんな超絶門外漢の私でさえもとりあえず一冊、ぱっと思いついた本がある。アーネスト・ヘミングウェイ老人と海』、無論本書でも紹介される。

 

 84日間も獲物から見放されているハバナの老漁師サンチャゴは、この日も、夜明け前に港から小舟を漕ぎ出す。夜が明けてしばらくたち、綱を掛けてある生木の枝がぐっと傾いた。

 この綱は釣りイトのこと。また、生木の枝は舷から海面へ突き出しており、これに網を軽く巻いて掛けている。枝が傾くとは、魚が食いついて軟らかい枝先が海面にグンと入ったことを意味する。

 その微妙なアタリに、老漁師はただならぬ大魚の気配を感じ取る。

 右手の親指と人差し指で、やわらかく綱を持つ。ハリ先の相手に違和感を生じさせないためだ。すると、また、ぐっときた。その感触で、百戦錬磨の老人は百ヒロ(150m)下の海で、ハリに鈴なりに刺してあるイワシに、マカジキが反応していることを察知する。イワシはいわば寄せエサで、そのイワシの列の中央には本命エサのマグロが仕掛けてある。

 

 引きずり込まれる。他人のレンズを借りて本を読むことの面白さに改めて気づかされる。釣りを描いた小説を釣りにフォーカスをあてて読む、王道中の王道を行くアプローチのはずなのに、なぜだろう、目から鱗が落ちるような思いを味わう。

 かといって、釣りに特化したレヴューに終始するわけではない。筆者が最後に注目を促すのが、福田恆存訳による新潮文庫版、ラスト14行である。詳述は本書に委ねるが、「『自然の厳粛さと人間の勇気を謳う』という、いかにもアメリカ的なフロンティア精神は、この物語が書かれた20世紀半ばでは、すでに海の藻屑と化していたことを、最後の14行は伝えている」ことを、見事に説得力を込めて論じてみせている。

 

「釣りには戦争がよく似合う」。

 単に選者の好みといえばそれまで、だがしかし、このフレーズには何かしら深く首肯させられるものがある。

 例えば神吉拓郎の短編「ブラックバス」は戦争末期の湖畔の疎開地が舞台。その地で出会った、一見優雅に釣りを楽しんでいるかにしか見えぬ少年は、しかし人差し指と中指を失っていた。彼が糸を垂らす先に待つのは、アメリカから持ち込まれた外来魚。

 少年期の開高健は「腹の底がうずいて眠れないほどの空腹を抱え、空爆死よりも餓死に脅えていた」。その彼にとって、釣りはライフラインであるとともに、生きる喜びをもたらすものでもあった。長じてベトナムの地にてこの記憶がよみがえる。戦地の農民たちもまた川面に糸を垂らす。「目撃したときには唸ることも忘れてしまうくらい感動した」。

 戦火のただ中に限らない、本書の釣り人は往々にしてただひとりきり水鏡に向かう。

「釣り人はいついかなる時も、心に深い傷を負いながら釣りイトを垂らしている」。