聞いてないよ

 

 現代医学には高度な診断ツールがあるとはいっても、医師と患者の会話は、やはり主要な診断ツールである。皮膚科など視覚にもとづく領域や、外科など処置が基本となる領域でさえ、正確な診断には、患者による口頭での病状説明とそれに対する医師の質問を欠かすことはできない。

 今では多くの技術がどれほど進んでいるかを考えれば、これはある意味、時代錯誤もいいところだ。SF映画は、患者のからだの上に携帯型の端末を走らせて診断を下せるようになると予想した。そして実際、多くの診断に、MRIPETスキャン、最先端のCT技術が用いられている。それでも医師と患者の単なる言葉によるやりとりが診断の基礎であることに変わりはない。患者が医師に語るいストーリーが、診断や臨床判断、治療への道筋を示す主要なデータとなる。

 だが、患者の語るストーリーと医師が聞いたストーリーが同じでないということなど日常茶飯事だ。……

 患者が一番不満なのもこの点だ。患者は、医師が本気で話を聞こうとしない、こちらの言おうとすることを聞いていないと感じている。多くが欲求不満を抱えたまま診断を終える。単に納得いかないだけではなく、誤診されたまま、あるいは適切に治療されずに診察室をあとにする患者も多い。

 医師のほうも、患者のストーリーを解き明かす困難さに欲求不満をつのらせている。特に複合的で不可解な症状を呈する患者の場合がそうだ。疾患の多様化と複合化がすすみ医学がより複雑化するにつれ、患者が言ったことと医師が聞いたこと――その逆もだが――のずれはさらに広がっていく。医師と患者が相互におよぼし合う影響を調べ、一つのストーリーが一方から他方にどのように伝わるかを探るべく、私はこの本を書きはじめた。

 

 18パーセント。

 本書で紹介されるこの数字、驚くなかれ、入院していた患者が退院時に自らの主治医の名前について正確に答えられた割合だという。もちろん、認知症を対象にした研究結果ではない。

 相手方の名前すら分かっていないコミュニケーションから何らかの有意義な情報交換が図られていることなどまずもってあり得ない。事実、同じアンケートの中で、自身の診断名を把握していた患者はわずか57パーセントに過ぎなかった。

 7人いれば3人は自分自身に下された病名さえ認識していない。そんな彼らが無事帰宅したところで、その薬がなぜ処方されているのかを理解していることはないだろうし、通所のリハビリ・プログラムを宛がわれたところでそれに何の効果が望めるのかを知ろうともしないだろう。彼らの主観としては、ただ漫然と医師から命じられているだけのこのような状況で、日々のまともなアドヒアランス遵守を期待する方がどうかしている、それがたとえ彼ら自身の健康にどれほど深く関わるものであったとしても。

 何はともあれ、医学的に妥当なアドヴァイスを受け入れてその通りに実践してさえいれば、相応の効果は見込めるはず、ところが人体の不思議はそんな期待をしばしば華麗に裏切っていく。毒にも薬にもならないはずのプラセボはその助言者に親密さを見出しさえすれば時に劇的に効いてしまうし、各種データに従って同様の指南が与えられたとしても、医師の示す共感性の高低によって患者のその後の健康状態はいかようにも揺れ動いてしまう。

 

 と、そんなことが医師である筆者自身の実体験や各種医療関係者から寄せられたリポートとともに軽快に書き進められるこのテキストにあって、少なくとも私という一読者には、他のインプレッションをすべて洗い流していくほどに深い陰影を刻むエピソードが紹介される。

 筆者は、健康診断でたった一度だけ接したことのある患者と、その一年後、同じく健診で再びまみえる。患者が開口一番言うことには、「別のお医者さまにしようと思ったのだけれど、もう一度チャンスを差しあげることにしました」。いきなりの喧嘩腰、カルテをいくらチェックしてもこの尊大な物言いにこれといって思い当たるところはない。筆者はおそるおそる尋ねると、返ってきた答えは、「身体診察をしなかったじゃないですか。やったことと言えば、しゃべることだけ!」

 筆者はあっけにとられる。「健康に問題のない患者には、必ずしも身体健診は必要ないという机上の真実を擁護したい」、そんな思いもかすめた。あるいは一年前も、その理由からあえて身体健診を施さなかったのかもしれないし、そのことも患者には言い含めていたかもしれない。しかし、そんなことを伝えたところで患者が何を得ることもない。本書が延々と繰り返す通り、クライアントの満足を引き出すことが健康につながることも熟知している。ならば医師に許された選択肢はひとつしかない。

「その日の自分の至らなさのためとそのためにあなたに嫌な思いをさせてしまったことを、謝ることしかできません」。

 もちろん筆者は知っている、「コミュニケーションは習得が可能な個別の技術に分解でき」ることを。与えられた脚本に従って俳優が演じることと、想定問答のマニュアル通りに医師が謝罪という身振りを見せることに何らの差異を認めるべき論拠はない。すべてのコミュニケーションはbotで書ける、「技術」の巧拙の他に問われるべきものなどひとつとしてない、あるいは遠からぬ将来クレーマーを前にしたこのようなポーズはすべて人工知能が担ってくれるかもしれない。倫理とやらに則ってハラスメントが撲滅された社会を夢想するよりも、AR箱庭へと幽閉されたサルが等しくいじめっ子になれる棲み分けを実現する方が限りなくたやすい。人命に尊さなどひとつとしてない。

 たぶんそれは単に「技術」の要請に過ぎない、筆者は強がって言う、「患者が再度来院し私に直接話をしようという強い意志を持ってくれたことはとても幸運だった」、と。医師と患者のゼロサムゲーム、ストレスを押しつけた側は押しつけられた側よりも往々にして長寿を手にする、すべて世界は誰かの陰なる犠牲の上に成り立つ。

 

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