風の歌を聴け

 

 この話は2003年の3月某日、「アメリカがイラクへの攻撃を開始する、数日前」に始まり、その5日後に終る。

 

 本書所収の「三月の5日間」について語るその前に、「この話は、1970年の88日に始まり、18日後、つまり同じ年の826日に終る」小説、すなわち村上春樹風の歌を聴け』への唐突な脱線を試みる。文中を漂う漠然としたテクスチャーという以上に、この両者を結びつけるべき論拠は特にない。とりあえず、テキスト最終盤における「風の音を聴く」との表現からの安直な連想ゲームではない。

 

 

「自分の闘う相手の姿を明確に捉えることはできなかった。結局のところ、不毛であることはそういったものなのだ」。

 デレク・ハートフィールドに導かれるまま、『風の歌を聴け』は、そんな「不毛」な時代を描いた。

 その頃既に「花はどこへ行った」と歌ったピーター・ポール&マリーは「あの時代遅れ」な存在と化していた。ベトナム戦争という万人にとっての徒手空拳に疲れ果てた世界の中で、学生運動に参加した「僕」は前歯を機動隊員に叩き折られ、そしてフェードアウトを余儀なくされた。その頃には、「大抵は庭のついた二階建ての家に住み、自動車を所有し、少なからざる家は自動車を2台所有してい」た、とまでは行かずとも、少なくとも破れた鉄のカーテンの隙間から覗く東側諸国に比べればよほどまともな労働分配の担保された社会はこの日本にも実現されていた。それは同時に、オイルショックが否応なしに「成長の限界」を突きつける、その前夜でもあった。

 そんな「不毛」のただ中で「僕」にできたことといえば、「1969年の815日から翌年の43日までの間に、僕は358回の講義に出席し、54回のセックスを行い、6921本の煙草を吸った」、そんな定量的な存在へと自らを解消することだけだった。「彼女」がバイトするレコード店を訪れた「僕」が買うベートーヴェンのピアニストがグレン・グールドか、ヴィルヘルム・バックハウスであるかなど誰も問うていないし、ビーチ・ボーイズマイルス・デイヴィスが選ばれるべき必然もない。「5550円」。時の止まった世界の中で、この他に知るべきことなど何もない。

 

 そして「三月の5日間」は、そんな「不毛」な風景すらも「僕」と「私」に「許された特別な時間」への郷愁へとあるいは引き込まずにはいない。

 あるパフォーマンスの会場で知り合った「僕」と「私」は、その日のうちに意気投合というほどの何かもなく、道玄坂のラブホに入り、ひたすらにセックスを繰り返す。時計のない部屋の中で、ケータイの電源も落として、「時間という感覚から遠ざかるようなあの感じ」へとのめり込む。「今になって私は、今があれから何日経ったのか、今の日付はいつなのか、そんなこと分からなくなってしまいたい、という気持ちでいた自分のことを、冷静に俯瞰できる。そしてあのときは、そういう気持ちでいることが特別に許されていたのだということが、よく分かる。私たちは窓も時計もない、テレビも見ずに済む、子供の夢のような部屋にいたのだ。セックスして、そのあとまったりする。いつのまにか寝て、どちらが先に寝たのかがどちらにも分からないような幸福な奇跡の中で、私たちは短く眠る。しばらくすると一方が目覚め、遅れてもう一方が目覚めたり、あるいは目覚めさせられたりする。それからまたセックスをする」。

 しかし、そんな「子供の夢」もいつかは覚める。ひとつは空腹によって。やむなく外へ出る、それはたまたまランチタイムの時間帯、カレー・バイキングで食事を済ませ、渋谷の街を流していると、電光掲示に「バグダッド巡航ミサイル限定空爆開始」の文字が走り、「案外静かな」反戦のデモ行進にも突き当たる。部屋に戻った彼らは決める、「もうここまできたら、テレビは最後まで見ないってことにしたらどうかなあって……それでホテル出て別れて、俺ら、それぞれ自分の部屋に戻るでしょ。それでそれぞれの、普通の生活を、また始めるわけでしょ。そのときに久々にテレビ付けるじゃない。ネット見たりね。それで、あ、なんだよ、もう終わってるじゃん戦争、みたいなね」。

「特別な時間」には45日のリミットが設けられる、つまりそれはプラス250円のラッシーを追加することを「奮発」と呼ばねばならない、双方の経済的な理由によって。いずれかの住まいにおいて、この続きが延長されることはない。

 

 一度駅へと向かった彼女は、そして再び名残りを追って道玄坂へと引き返す。

「女から見て道の左側の、電信柱のひとつの、脇に、大きなポリバケツが置いてあり、そのバケツの隣には、大きな黒い犬がいた。犬は前屈みになっていて、バケツからこぼれたごみが地面に落ちているのをクンクンあさっているように見えた。でも、よく見るとそうではなかった。女は犬と人間を見間違えていた。犬の頭部と思っていた部位は人間の尻、それも剝き出しになった尻だった。女はホームレスが糞をしてるのを見たのだった。それが分かって女が吐き気を催すのと、女が、というより女の喉が『あ』と声を上げるのとは、ほとんど同時だった。……吐いたのは糞をしている光景を目の当たりにしたからではなく、人間と動物を見間違えていた数秒が自分にあったことがおぞましかったからだ」。

 一見すると、戦争という事態は、この「数秒」が平時になることに他ならない。奇しくも『風の歌を聴け』の「僕」は「二ヵ月の間に36匹もの大小の猫を殺した」。「猫」を「人間」に差し替えれば、あるいはその事態をもって戦争と呼ぶ。

 ただし、このひどくナイーヴな嘔吐――J.P.サルトルが実存の証をそこに見た――は、「特別な時間」があまりに「特別な時間」にすぎたがゆえにもたらされた、ほとんど錯誤の産物でしかない。このリップ・ヴァン・ウィンクルの吐き気が程なく収まったのは、「人間と動物を見間違え」ることをやめたからではない、「特別の時間」ならざる日常、つまりは「人間と動物を見間違え」ることにすっかり慣れ切った「不毛」な世界に帰り着いたからに過ぎない。

 確かに、現段階の科学をもってしても、異種間の交尾が生殖機能を帯びることはない、その意味においては画然と分かたれた「人間と動物」は、しかし、「僕」と「私」との避妊なきセックスが欠片も受胎の予感を残さなかったことによってあからさまに破られる。「僕」と「私」は、産児のためでもなければ、社交性の一環としてでもなく、さりとて快楽を貪る風でもなく、性交渉をする。ここにおいてセックスは、互いにその名も知らない男女によって営まれる、「特別な時間」をなんとなく埋めるためのレトリカルな記号という以外の機能を持たない。

 戦争を知らない子供たちでいられた、その限りで彼らに流れただろう「特別な時間」は、ところが戦争によってすら、何が変わることもない、終わってもいなければはじまってもいない。人々の間をかつて流れていたかもしれない時間なる何かは、とうにその作用を喪失した。世間とやらは「人間と動物を見間違え」ることを決してやめない、どころかわが身を守るためとあらば、能動的にこの「見間違え」へとコミットする。大きな物語の終わり、ベトナムの蹉跌をもって「不毛」へと仕向けられた人々は、アフガンやイラクを経てさえも、「不毛」であり続けた。311が何を変えた? コロナが何を変えた? 自他の分断はよりくっきりと先鋭化して、人はますます「不毛」になった。たとえウクライナを経験したところで――何も変わらない。

 

 村上春樹DJは言った。

 僕の言いたいのはこういうことなんだ。一度しか言わないからよく聞いておくれよ。

 

 僕は・君たちが・好きだ。

 

 とりあえず、2003年の渋谷に「君たち」はいない。1970年のラジオにさえも、もしかしたら既にいなかった。ましてや2022年の世界には「君たち」なんていやしない。

 

 

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