ドント・ルック・アップ

 

 本書の出発点は、あまり褒められたものではなく、なかば義務感、なかば日和見主義だった。トランプ政権の前半、わたしは『The Fifth Risk(第五のリスク)』という本を書いた。その中で連邦政府を「実存するさまざまなリスク(自然災害、核兵器、金融パニック、敵対的な外国人、エネルギー安全保障、食糧安全保障など)の総合的な管理者」と位置づけた。連邦政府は、正体不明の200万人が寄り集まった不透明な集団ではない。国民の意思を無力化するため周到に組織されたディープステート(影の政府)でもない。連邦政府は専門家の集まりであり、本当の英雄も含まれている。にもかかわらず、わたしたちは一世代以上のものあいだ、そういった優秀な人々を軽視し、雑に扱ってきた。その悪弊は、トランプ政権で最高潮に達したといえる。……

 その運が尽きたのは、2019年末だ。中国で変異したばかりの新型ウイルスがアメリカへ向かってきた。まさに、私が『The Fifth Risk』の執筆中に想定していたようなリスク管理が試される状況だ。立場上、この出来事について書かないわけにはいかなくなった。ところが、この件に深くのめり込むうち、おおぜいの素晴らしい人物に出会い、じつはそういう人々を通じてストーリーをつづるべきなのではないかと考え始めた。

 

マネー・ボール』においては、時のオークランド・アスレチックスGMビリー・ビーンをはじめとしたセイバー・メトリクス界隈の面々。ソロモン。ブラザーズを舞台とした処女作『ライアーズ・ポーカー』においては、何をおいてもルーウィー・ラニエーリ。どんなフィクションよりもぶっ飛んだキャラクターを演出することにおいては類稀なる才覚を示すこのマイケル・ルイスは、今作『最悪の予感』においても同様に、「おおぜいの素晴らしい人物」にスポットライトを当ててみせた。

 例えばそのコア・メンバーであるカーター・メシャーが、パンデミック対策の核心として学校に目をつけたのは、2006年にまで遡る。「ウルヴァリンズ」のひとり、ボブ・グラスから示された数学モデルに従えば、他の「どの方法にしろ、たいして大きな効果ではなく、ましてや、増殖力を1未満に下げてパンデミックを食い止めることは不可能だった。ところが、一つの方法だけ、結果がまったく異なっていた。学校を閉鎖して子供たちのあいだにソーシャル・ディスタンスを取ると、インフルエンザを模した病気の感染率は激減していくのだ(このモデルが定義する『ソーシャル・ディスタンス』とは、接触をゼロにすることではなく、子供たちの社会的な交流を60パーセント減らすことを指す)」。

 この計算には、アメリカに固有の事情が横たわる、なにせ全米の「公共交通機関を合計してもバスは7万台なのに、スクールバスはなんと50万台もある」。こうした机上のシミュレーションだけではなく、彼は地元の小学校にも実際に足を運ぶ。じゃれ合うその姿に彼は思わず絶叫する、「見ろよ! あの子たちは“小さな大人”じゃなくて別の人種だ。空間に対する感覚が違う」。そうでなくとも、教室も、廊下も、バス座席も、何もかもがすし詰めに設計されていた。

 行動派の彼はもちろん「ホワイトハウスの棚の上に置いておくだけでは、戦略は機能しない」ことを熟知していた。第一に働きかけるべきと見定めた相手は、公衆衛生の総本山、CDCだった。

 そしてつれなく黙殺された。

 

 本書の「素晴らしい人物」が講じたのは、日本にはその報の届くことのなかった幻のマジカル・ビュレットなどではない。検査の徹底であり、陽性者の隔離であり、ソーシャル・ディスタンス(先に引いた意味とは異なる、今日的な用語法としての)であり、つまりは何もかもが私たち――ワクチン一本足打法信者やベイズ推定に基づく検査抑制論者は数に入れない――がこの2年にもわたって身をもって叩き込まれた公衆衛生上のセオリーを一歩として超えるものはない。

 当たり前のことを当たり前にぬかりなく徹底する、本書があらわにするのは、凡庸といえばあまりに凡庸な、そんな事実だった。

 

 野球界というショービズを舞台にした場合ならば、ヒーローを輝かせるための間抜けなかませ犬として、例えばオールド・スクールのスカウトたちやテキサス・レンジャーズをだしに使ってもさしたる実害などなかった。『マネー・ボール』が喧伝するようなオークランドのひとり勝ちなど現実の野球では起きていなかったことをそもそも読者は把握していただろうし、スタッツに基づく選手の目利きが必ずしもそこまで芳しいものではなかったことは、選球眼の申し子ケヴィン・ユーキリスばかりが専らクローズ・アップされる点からしても十分に察しはつく。

 そして今回、このテキストにおいて引き立て役をあてがわれるのは、誰あろう、政府機関わけてもCDCに他ならない。官僚制の半ば宿命としての硬直化がアメリカの保健衛生を襲っていただろうことは決して否定はしないし、決断主義的な「素晴らしい人物」たちにしてみれば、やきもきさせられることが多々あっただろうこともあえて否定はしない。

 しかし、本書の読者は知っている、NIAID所長アンソニー・ファウチの存在を。確かに物言いは極めて慎重で、時に明瞭さを欠いた点もないとはいえない、だが、どうしようもないあの大統領がフェイクを飛ばす傍らで、科学コミュニケーションに献身した彼の存在が、マイケル・ルイスによって描かれるような頑迷固陋な政府機関の象徴とはかけ離れたものであったことを誰が否定することができるだろう。

 私の気づいた限り、本書が彼の名に言及するのは会議の出席者としてのただ一度だけ。本書の記述の重点がコロナ・パンデミック前夜に専ら割かれていることを差し引いても、彼への処遇には筆者の見立てに相反する不都合な真実があったと読むのが妥当ではなかろうか。

 例えば日本でも、コロナのごく初期において同様の対策を提唱していた人物のひとりに「8割おじさん」こと西浦博がいる。しかし、その経歴を見る限り、彼の導出したアプローチに「素晴らしい人物」たちからのカンニングの形跡は見えない。おそらくは本書の描出とは裏腹に、世界の感染症研究者たちには予めほぼ常識としてシェアされていただろう見解を西浦もまた、説いていたに過ぎない。

 

 以下に、筆者の社会観を如実に暴露する表現を引く。

「どこの会社でも、実は1割の従業員が業務の9割をこなしているように、ごく一部のウイルス感染者が大量の感染者を生んでいるのだった」。

 ここで着目を促したいのは無論、パレートの法則をさらに誇張した従属節である。筆者の惚れ込んだ「素晴らしい人物」が「1割の従業員」として「業務の9割をこな」したことにするためには、その他「素晴らし」くない斬られ役はどこまでも愚劣であらねばならない。物語的な痛快感を優先するエンタメ、バラエティの過剰演出ならば、このような二元論的世界観を素材に落とし込んだところで、さしたる毒は含まれないのかもしれない。しかし、アメリカ一国だけで100万人が命を落としたパンデミックを前にして同じ手法を取ることが、果たして奨励されるべきことなのだろうか。

 

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