統治行為論

 

 原発は危険なのか。それとも大地震が起きても大丈夫なのか。311後、原発が少しずつ再稼働していくなか、漠然とした不安を持っている人は多いと思います。いったい本当はどちらでしょう?

 対立する主張を本格的にぶつけ合う場は、裁判しかありません。「危険だから止めてほしい」と訴える住民たちが原告となります。国や電力会社は被告です。そして、どちらに説得力があるかを判断するのが裁判官です。勝訴と敗訴を分けるポイントは何でしょうか。

 この本は、裁判長らの証言と最高裁の内幕を知る人たちの証言を収めています。……

 この本は三部構成です。

 第一部には、住民側勝訴の判決を下した三人の裁判長が登場します。なにが勝敗を分けたのか、どんな論理によって結論を導き出したかを丁寧に解説してもらいました。司法の可能性を感じることができる内容です。

 第二部では住民側敗訴の判決を書いた裁判長らに証言してもらいました。どのように「原発を裁く」ことはむずかしいのか。その葛藤を通じて、司法の限界をうかがうことができます。

 第三部では、地裁や高裁の裁判官に強い影響力をもつ最高裁の動きと今後の原発訴訟のゆくえを追いました。

 

 憲法学の世界に「統治行為論」なる概念がある。

 このアイディアが日本の司法に現れたその初出は、1959年のいわゆる砂川事件をめぐる最高裁判決に遡る。そもそもは抗議活動中のデモ隊による基地内への半ば不可抗力的なわずか数メートルの乱入から派生して、米軍の駐留をめぐる違憲性が問われるに至ったこの裁判において、一審では被告の主張が認められて無罪、そして検察側からの異例の「飛躍上告」によって最高裁に持ち込まれるに至る。果たして大法廷が下した判断は、「安保条約の如き……高度な政治性を有するものが違憲であるか否かの法的判断は、純司法的機能を使命とする司法裁判所の審査には原則としてなじまない性質のものであり、それが一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外にあると解するを相当とする」。かいつまんでいえば、裁判所は憲法に定められた三権分立の一切を放棄して行政にフリーハンドを認めます、と宣言するも同然の判例がここに完成した、これをもって「統治行為論」という。

 

 実は、原子力行政についても、この「統治行為論」に限りなく通じる最高裁判例が存在していた。   

 それが、1993年の「伊方原発訴訟」である。本書なりの要約を引用すれば、「原子力や工学、地震学などの専門家が高度の知見を持ち寄った国の規制基準。それにもとづいて原発はつくられたはず。それを担当省庁が審査して『合格』としたのであれば、規制基準が不合理なときや、よほど見逃すことのできない欠陥や見落としがない限り、裁判所としては『よし』とする。それは行政庁の裁量の範囲内であり、司法は行政に判断をゆだねてよい――。

 つまり裁判官は、個々の原発が危険かどうかについて独自の判断に踏み込まなくてもすむのだ」。

 国の定めたガイドラインがお墨付きを与えている以上、原発行政も「裁判所の司法審査権の範囲外にある」と最高裁は公に言い放ったのである。

 

 しかし、ポスト3.11の福井には、「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」(日本国憲法76条)との文言を胸に法廷へと臨む傑物があった。

 突破口は被告の関西電力が何気なく差し出した資料の中にあった。その裁判長、樋口英明は当時の衝撃を述懐する。

「どちらも『原発は強い地震に耐えられない』ということを前提に議論しているではないか。

『正直驚きました。双方ともその点には争いがないんです』」。

 その見解に相違があるとすれば、被告の関西電力サイドが、大飯原発周辺にはそもそも大規模な地震が起きないことを前提に議論を組み立てている点に過ぎない。そこにおいて想定されていた地震の衝撃は1260ガル、そしてそのような地震が福井を襲うことはない、それが安全性をめぐる彼らの主張だった。

 しかし、現実はとうの昔に電気事業者の理論上の計算を裏切っていた。

「全国に20カ所もない原発のうち4つの原発を、想定した地震動を超えるものが5回も襲っている――。しかも6年足らずの間に起きた事実だった」。そうとなれば、「被告の本件原発地震想定だけが信頼に値するという根拠は見出せない」。

 かくして判決文の樋口曰く「一番大事なところ」は導出される。

 この地震大国日本において、基準地震動を超える地震大飯原発に到来しないというのは根拠のない楽観的見通しにしかすぎない上、基準地震動に満たない地震によっても冷却機能喪失による重大な事故が生じ得るというのであれば、そこでの危険は、万が一の危険という領域をはるかに超える現実的で切迫した危険と評価できる。このような施設のあり方は原子力発電所が有する前記の本質的な危険性についてあまりにも楽観的といわざるを得ない。

 

 本書の独自性にして最高のファインプレイは、裁判官へとそのフォーカスを向けたことにある。どうしても原発というインパクトに引きづられざるを得ないテーマを三権分立の問題へと換骨奪胎して再提示する、目から鱗が落ちるような感に駆られる。

 樋口により下された大飯原発の運転差し止めの仮処分には、あまりにみすぼらしい後日譚が続く。この判決の「後に、最高裁事務総局を経験したいわゆる『エリート裁判官』ばかり3人が同地裁に異動して、同年12月に、関電の異議を認めて仮処分を取り消す決定をした」。彼らが依拠したのは無論、伊方原発訴訟の最高裁判例である。審査規準を金科玉条に樋口が摘示した危険性をめぐってはひたすらの黙殺を貫いた。

 今一度、憲法76条の文言を引用したい。

 すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される。

 この条文には奇妙なねじれが付きまとう。つまり、個人の「良心」に依拠しなければ維持できないようなシステム設計の脆弱性を一方では謳い、そして他方では、その脆弱性への安全弁として設けられたのがまさに当の憲法であり、さらに例えば99条において「この憲法を尊重し擁護する義務」を裁判官その他の公務員へと負わせることをもって補強する。

 既に崩壊済みの社会にあって他と同様、裁判所に期待を寄せ得る余地などもはやない。しかし現に、「良心」と「独立」を毅然と示した人間がひとりと言わず存在していたことを確かに知る。本書の意義は、単に司法の域を超える。

 奇しくも「良心」に対応する英単語conscienceは、その語源をラテン語com-scientiaすなわち「共に‐知ること」に持つ。それぞれに「独立」な個人が、理性の導きによって近似的な結論を得る、かつてジャン=ジャック・ルソーが「一般意志」と名指したこの事態をもって「良心」は定義される。この演算アプリケーションの作動プロセスに人間性とやらを措定すべき余地はひとつとしてない。

 

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