オキナワ・サンマ・パーティー

 

「サンマ裁判」とは、1965年、復帰前の沖縄で、琉球漁業株式会社が琉球政府を相手に起こした裁判のことだとわかった。当時の沖縄にとって輸入品だった大衆魚「サンマ」にかけられた「関税」について「不当な徴収であるから返還・還付せよ」と輸入業者たちが琉球政府を訴え、一審では勝訴。

 この判決は琉球政府を実質的に管理し、当時の沖縄を支配していた「高等弁務官」にとって都合の悪いものであったために強権が発動され、「サンマ裁判」はアメリカ側の裁判所に「移送」され「司法権」を揺るがす大問題となり、そして「祖国復帰運動」の高まりへと繋がっていった……。

 そんな激動の時代だった沖縄の「復帰前」を象徴するような、熱いドラマがあったことを僕は知った。

 

 この裁判が何を争っていたのかについて、もう少し補足が必要だろう。争点となったのは1958年に発せられた「布令十七号」だった。この中では、日本からの「輸入」に関して「次に掲げる物品で別表に定めるものは物品税を課する」とされており、生鮮魚介類についても「別表」には19品目が具体的に記載されている。うなぎ、あゆ、かき……と連なるこのリストの中には、しかし既に沖縄においても大衆魚として親しまれていたサンマは見当たらない。

 ところが、これら19品目と同様に、サンマにも20パーセントの税率が課せられていたのである。

 アメリカ民政府の見解ではこれらの項目はあくまで「例示」にすぎず、広く海産品全般に及ぶ。しかしこれが琉球政府を揺るがす事態へと発展し、時の主席はすぐさまサンマへの関税を撤廃。ところがそうは問屋が卸さない、高等弁務官ポール・キャラウェイはすぐさま課税の再開を指示する。

 ボストン・ティー・パーティーの記憶再び、「代表なくして課税なし」と義憤をもって立ち上がったのが、水産業者のゴッド・マザー、このドキュメンタリーのメイン・キャスト、玉城ウシだった。

 

 単にルポルタージュとして記載された情報を拾うだけならば、本書をめぐる評価はいささか厳しいものとならざるを得ない。というのも、事件の発生から既に半世紀が経過しているのである、関係者が鬼籍に入って久しくなっているのも当然で、いきおい情報は専ら新聞記事等の引用に頼る他ない。

 ところが、本書無二の切り札がすべてを覆してしまう。

 玉城ウシの面構えである。

 劇映画ならば、このキャラクターをキャスティングできた時点で既にもらったようなもの。しかも本訴訟には、女史にも負けず劣らずの脂ぎった面々が集まってくるのである。ましてや、人のお名前をいじる悪趣味や非礼は承知の上で、ウシもいれば、トラもいて、もちろんあのカメだって登場してくる、ドラマのネーミングを凌駕して、本書の磁場のリアリティ・ラインは圧倒的に振り切れる。

 こうした多士済々がインクのシミを抜け出して、脳内で躍りはじめる。

 

七人の侍』や『仁義なき戦い』をもってしても裸足で逃げ出す顔の圧が、本書に絶対的な説得力を宿さずにいない。当然に、同時代の沖縄人が触発されないはずがない。

 上述の通り、サンマ裁判は高等弁務官の鶴の一声でアメリカへと移送された。もちろんデュー・プロセスに則るでもない司法権を蹂躙するこの暴政に、「職業柄、『語らない』はずの裁判官たちが、明確に『反対』と声を上げた。最高裁にあたる『上訴裁判所』以外の全裁判官38人が、団結して抗議文をまとめてアメリカ民政府に突きつけたのだ」。

 1966年、第5高等弁務官F.T.アンガーの就任式典における「祝福の祈り」の壇上では、ラインホルト・ニーバーのフレーズに添えて、牧師が堂々と言い切った。「新高等弁務官が最後の高等弁務官となり、沖縄が本来の正常な状態に回復されますように、せつに祈ります」。

 この瀬長ひとりが叫んだならば、50メートル先まで聞こえます。ここに集まった人々が声をそろえて叫んだならば、全那覇市民にまで聞こえます。沖縄70万県民が声をそろえて叫んだならば、太平洋の荒波を超えてワシントン政府を動かすことができます。

 瀬長亀次郎のこの名演説を本書は地で行く。

 たかが茶にかけた物品税への反発から派生して、ついには独立戦争にまで至ったアメリカの建国史をなぞるように、沖縄においても、きっかけはたかがサンマだった、いや、たかがサンマだからこそ、沖縄の民主主義を惹起せずにはいられなかった。

 年貢の暴利を貪る権力者に媚びたところで、彼らが良きに計らってくれる日など決して訪れることはない。そんなミラクルが起きるのならば、歴史は封建時代をめぐる一切の記述を持つ必要がない。独立は天から降ってこない、地から立ち上がることでしか得られない。

 

 本書後半に、玉城の上京時の様子が親族の証言として綴られる。

「わたしたちが迎えに出たら、〔柴又〕帝釈天商店街をむこうから歩いてきたんです、ウシさんが。見えてきたら、もう指にも首にもジャラジャラとアクセサリーがついてて、洋服もけっこうど派手な感じで。みんなビックリして振り向いてました」

 ニライカナイより舞い降りたる異物、それはまさしく車寅次郎の降臨に似て。

 風貌が履歴をあらわす、身近にいればかなり面倒くさいだろう、アクの塊のような、裸一貫のし上がり。読者の多くは、本書を通じて構築されたイメージのいわば答え合わせとしてこの記述を目にすることになる。

 明日は今日よりすばらしい、そう信じて献身できる時代があった。

 

 実は本書には、玉城ウシに向こうを張るようなもうひとりの主役がいる。サンマ裁判において代理人を務めたその弁護士、下里恵良という。「ラッパ」の二つ名で鳴らし、長年にわたり沖縄における自民党の重鎮を担ったこの彼が、我慢ならんと訴訟に立ち上がったのである。無限に引用したくなる、これまたフィクションを凌ぐ立志伝に関する詳述はあくまで本書に委ねるが、誰に臆することもなく、瀬長亀次郎と懇意を結んだことでも知られるという。

 その瀬長が下里の死に際して寄せた追悼文がある。

「ものの考え方、政治的立場は違っても、相手に対するあたたかい思いやりをいつもわすれず、自分のいいたいことをいい、思ったことをやりぬいたヒューマニズムの持ち主、恵良さんの、あの豪放磊落な笑い声がもう聞けないのが残念でなりません」。

 本書を手に取る者ならば必ずや瞬間、その「豪放磊落な笑い声」を聞く。

 そして何より、この面構えである。

 カール・シュミット「友敵理論」に毒された、同胞を指して「あんな人たち」呼ばわりする排他主義者にまさかこの顔が望めようはずもない。違いを超えて民として互いに手を取り、己が祖地の主たることを欲してやまない誇り高き者にしか持つことの許されない顔がここにある。

 

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