もう戻れない

 

 歌謡曲とは、おそらく、戦後の日本における最強の思想である。というのも、言語に関わるどんな文化を考えてみても、歌謡曲ほど広く深い浸透力をもつものはないからだ。小説は、ベストセラーになっても、読まない人は読まない。映画や演劇は、大ヒットしても、観ない人は観ない。いわゆるJ-POPは、基本的に同時代を生きる若者向けの音楽であるし、あまりに拡散的で、誰もが知っている歌、というのは生まれにくい。しかし、歌謡曲は、それなりに限られた数のヒット曲が、年齢や階級をとわず、広く国民に共有されるしくみになっていた。それは、良くも悪くも受け手を選ばない。聴く気がなくても聴こえてくる。それらの歌は、日めくりカレンダーの格言ではないので、人は、その意味内容の是非をいちいち立ち止まって反芻しない。しかし、ふと気づいてみるといつのまにか、メロディーとともに言葉が脳裏に焼き付いている。

 こうしてサブリミナルに蓄積される言葉というのは、あなどれない。とりわけ若い頭脳にインプットされる言語情報というのは、人間の価値観に大きな影響を与えるからだ。でなければ、学校の教科書の検閲が政治的論争になったりはしない。しかし、問題は、だれも歌謡曲を「教育」とは考えていないところである。

 

 1981年生まれの私、本書を開いて間もなくつまずく。

 とにかく矢継ぎ早に繰り出される曲名、歌手や作詞家、リリックの断片といった情報がカスケード状にたたみかけてくるそのさまに、たちまちオーバーフローを来たす。

 ランダムに開いたページ(p.42f.)からその例示を引いてみる。

 一般家庭の女性をめぐる既婚恋愛が主題として広まり出したのは、70年代であったように思われる。そして、当時この主題をもっとも端的に歌ったのは、おそらく沢田研二にとどめを刺すだろう。その題名がすべてを語る「許されない愛」(72)は、「帰るところのあるあなた」への追慕を語り、愛しい相手を「忘れられないけど/忘れよう」とする男の歌であった。もうひとつ、これをほぼ反復しているのが、その6年後の作品「LOVE(抱きしめたい)」(78)である。ここでも、「帰る家」と「やさしく包む人」がいる相手に対し、「指輪を外して愛しあう/いけない女と呼ばせたくない」という男が苦渋の「さよなら」を告げる。あるいは、沢田研二の代表曲となった「危険なふたり」(73)にしても、いったい何が「危険」なのだろうと考えるとき、「世間を気にする」「年上の女」が既婚である可能性を排除することができない。

 さらに、女性の目線からこのテーマに迫る別の例を見てみよう。山口百恵の「絶体絶命」(78)で三角関係の修羅場をくぐるツッパリ娘は、けっきょく、「白いハンカチをかむ」女性の「涙の深さに負けた」という。

 圧倒的に流れ込んではざるのようにすり抜けていく単語の数々に、さてどうしたものか、と途方に暮れる。持て余すこと数ページ、ふと気づく。例えばこの「帰るところのあるあなた」を文字列として1秒やそこらで処理しようとするからおかしなことになるのであって、おそらくは曲に乗せながら数秒を費やし、あるいはさすがにフルとはいかないまでも本文には引用されることのない詞のコンテクストなども時に想起しながら、この文章を読み込まなければならないのだ、と。そして、それが一定の世代においては自然と可能になっているというこの事態こそが、「歌謡曲」の「歌謡曲」たる所以なのだ、と。

 漠と察するに、「歌謡曲」として本書に現れるような一連の作品を知っている世代は、しばしば鼻歌でも奏でながら、調子を合わせてテクストをめくっていく。「この主題をもっとも端的に歌ったのは、おそらく沢田研二」と言われても、既に半ば懐メロ化したものとして「歌謡曲」に触れた世代にとっては、あっさりそんな風に断言していいのかよ、と疑問符のひとつでも入れたいところ、でも、「歌謡曲」の「教育」をデータベース共有する世代にとっては、当然のコンセンサスとしてさしたる引っかかりを生むこともなく通過していくのではなかろうか。

 ハミングのひとつも漏れる、自ずと歌詞も口をつく、同時代性も呼び覚まされる、遡ることほぼ半世紀、「歌謡曲」が「歌謡曲」たり得るためにテレビの前で「教育」に費やされた時間があってこそはじめて成り立つこの文体こそが、「歌謡曲」という現象を無二の仕方で表現する。

 

 あくまで個人的な記憶の範疇を一般化する愚を犯す。1990年前後の小学生が「歌謡曲」に触れる最大の機会をもたらしたのは、アニメ版『ちびまる子ちゃん』だった。音楽番組をほぼ見ない家庭で育った私は、この物語経由でピンク・レディー山口百恵の名を覚えた。「UFO」の振りつけを知ったのも、たぶん『まる子』が契機である。紛れもなく、「歌謡曲」は近過去のノスタルジアを湛えるテレビの中の彼女たちの共通言語だった。

 思いついてしまったからどうにもとまらない、以下、本書から一旦外れて『まる子』のテーマ・ソングに触れてみる。「おどるポンポコリン」も「走れ正直者」も、ターゲット世代ならば誰でもだいたい歌えるということでは「歌謡曲」の定義をなるほど満たしていそうではある。しかしさくらももこ作詞のそのサビといえば、「ピーシャラピーシャラパッパパラパ」に「リンリンランランソーセージ」と、今となってはノスタルジア遊園地の空々しさとかバブルの虚しさとかそこにさえもどうとでも意味をこじつけることはできるけれども、基本的には「虚構の時代」(見田宗介)の作法丸出しの、読み解くべき意味がないということを読み解くことしかできないようなものだった。

 

 閑話休題、そんなピンク・レディーの代表曲、「ペッパー警部」。何気なく聞き流されていく歌詞の意味などまともに考えたこともなかったけれど、確かに改めて読んでみればいちいちが暗喩とすら言えないまでにあからさまである。「注射」、「愛しているよと 連発銃が」、「ああ 感じてる」、そしてとどめに「私たちこれからいいところ」――ここにセックス以外の何かをどうやって見出すことができるだろう。

 しかし、筆者に言わせれば、このように「基本的に受け身の異性愛女性を批判的に描き出したピンク・レディーだが、続く数曲においては、積極的に欲望する女性、ないしは男を狙う女、という山本リンダ的なベクトルが強まっていく」。例えば「渚のシンドバッド」において「あなたはセクシー」と歌うことで男性を「セクシー」な客体として眼差し、「UFO」に至っては「鏡にうつしてみたり/光をあててもみたり」してでも窺い知ることのできない「素顔」の誰かと対置するように、「地球の男に あきたところよ」とサビで突き放す。筆者の見立てでは、「男を欲望しない性的越境者」をめぐる「ひとつのクライマックス」としての「モンスター」は「何らかの理由で性的に疎外された者の憤り」をあらわし、そして同時に「モンスターが来たぞ」と自己宣伝しなければ「うようよ」する「ひと」に気づかれない透明な存在であることを暴露する。

「既成の価値に固定されないもの、逸脱した変種としてあるもの、そしてしばしばグロテスクで『不自然』なものの復権を、二人の女性ペアは一貫して謳いあげた」。

 そして原著の出版からさらに20年、現代の読者は、ミーとケイのトランスがあくまで「謳」わされたものでしかないことを知っている。数分刻みのスケジュールで酷使され、骨までしゃぶり尽くされて、そして捨てられた彼女たちは、旧来的ジェンダー女工哀史を紡ぐ存在として再定義されて今日に至る。

 

「天使とは、本来、性別を超越した存在であり、おそらくはその性的超越のゆえに、〈非・大人〉との親和性が高い」。ここで筆者はひとりのアイドルにフォーカスを当てずにはいられない。「桜田淳子は、新曲が出るたび初恋を繰り返すかのごとく、くちづけに憧れ、ためらい、ときめく少女の想いを歌い続けた・もちろん、どの歌を聴いても、そこから先へは進まない」。そして本書内、最高級の賛辞が飛び出す。「歌謡曲の仕事とは畢竟、性(差)の倦怠感に抗う天使的な〈何度目でも初めて感〉の終わりなき再生産であり、単なる癒しや快楽とは違う、何らかの異化作用を聴き手のうちにもたらすことである。それは、日常という名の淀みから、性/生が〈未知の不安とあこがれ〉であるような感覚をすくい取るいとなみである」。

 確かにレコードの中の歌声は、エンドレスにリピートさせることができる。しかし残酷にも、ヴォーカロイドならざる人間は、「日常」の重力に囚われずにはいられない。束の間「天使」として宙を舞った存在が、流れゆくそして不可逆の時の中で、地上に引き戻されるその刹那、その統一は非常な摩擦を伴わずにはいない。結果、彼女はやがてトランスの中で、70年代ですらない前近代の家庭を自ら進んで引き受けた。

 

 2002年の筆者は、「歌謡曲」による「教育」の果てに広がる「ミラクル・アイランド」の夢を見ることができた。そして現代において読者は、その壮絶な答え合わせのオンタイムを生きる。

「消えていくこと、去っていくこと、永続しないことに対する強い自意識のあった70年代は、それゆえにいっそう、甦ること、回帰すること、思い出して生き直すことを促す逆説的な生命力を秘めている」。仮にこのテーゼが正しかったとして、それはあくまで「歌謡曲」が「歌謡曲」たり得たことを前提としての話である。「歌謡曲」を知らない子供たちにその声が届くことはない。

 万が一彼らにリーチしたとしてもそれは、間奏を省かれたYoutubeや曲名検索の1ページ目に現れる歌詞解釈のコピペを超えない。つまり、それは今日の他のコンテンツがそうあるように、「歌謡曲」が「歌謡曲」であった時代以上の画一性をもって消費されることとなる。彼らから教義への批判性は決して望み得ない。

 このリヴィング・デッドの壁を前に、勝手にしやがれ、それ以外に何を言うことができるだろう。

 

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