地獄八景亡者戯

 

 線路は続かないよ、どこまでも。

 時刻表をつぶさに見れば、終着駅がどこともつながらない鉄道があちこちに発見できるはずだ。

 諸般の事情によってそれ以上先へ延びることを許されず、レール止めによって行く手を阻まれた鉄道路線。錆の浮いた鉄の断面を悔しげに見せながら、オノレの置かれた立場や状況を悲しみとともに受け入れ、延々とつながってきたレールの最終地点を受け持つ最後の一本の姿をしっかりと見届ける。見届けずにおくものか。その精神でどんどん旅をしたいのである。

 

 ある鉄道は地域の基幹産業であった鉱山の衰退や閉鎖によって、またある鉄道はそもそもが参拝列車として特化型として作られたがために、「行き止まり鉄道」として今日もなお横たわる。

 一見いかにもさびれた一人旅向けの企画、しかし表紙があらわすように、本書には筆者のお供がいる。

烏山駅が複雑なのは、近くを走る真岡線(現・真岡鐵道)に、烏山を経て茨城県大子まで路線延長する計画があったからですよね」

「そう。烏山が終着駅であることは変わらないけど、いきどまりじゃなくなる可能性が早い段階であったわけだよ」

 限りなくテレビドラマの説明ゼリフに似て、読者向けにこうした基本情報をガイドするために送り込まれた使者として宮坂氏なる編集者が同伴する。ミヤサカさん、と聞くとどうにも『小沢昭一の小沢昭一的こころ』を連想せずにはいられない私、そのコメディリリーフ性といい、本書においてもついご都合主義的に立てられた機械仕掛けを疑ってしまう。悪い癖。

 

 廃れた町には、いかにもそれにお似合いな出会いが待ち受ける。

 蝋人形館に入れば、何を目指しているのかが今一つ定まらぬ中途半端さや、作り込みの甘さに落胆を抱き、早々の退散を余儀なくされる。老舗と思しき喫茶店に入れば、店主のごたくを浴びせられ、そして出てきたご自慢のコーヒーといえば「腐った泥水」。海辺の町の寿司屋のランチは、3桁円の値段なりの味しかしない。

 そんな道中でも、時にお宝だって引き当てる。上総亀山を訪れれば、その佇まいにミヤサカさんは一目ぼれ、「気候のいい千葉県でありながら人里離れ、静けさに満ち、なおかつ自然が生き生きとですからね。まいった、感服した。一挙にボクが住んでみたい郊外の第一位に浮上しました」。「古いものは、古くさいのではなくレトロで味のあるもの」とのコンセプトでまとめられた鯨ヶ丘の街おこしは、「表面的なサービスとかもてなしではなく、ちゃんと血が通っている」と筆者を唸らせずにはいない。

 

 読後しばらくふと立ち止まる。地雷とお宝、このテキストをめぐる私の記憶に残り続けるのは、果たしてどちらの体験だろうか、と。残念ながら、というべきか、そんなものは圧倒的に前者に決まっているのである。

 うまいコーヒーが飲みたければ自分で大粒の豆を買って挽いて淹れればいいだけの話。他人のおすすめなんてミシュラン・ガイドと変わらない、よほど想像力の足りないサルでもない限り、人間の妄想期待値をたかがリアルのカフェが超えることなんて決してあり得ない。対してそうそう飲めない「腐った泥水」は、一度うっかり巡り合ってしまえば、無駄話のタネとして色が出なくなるまで使い回せる。

 筆者が酷評を並べるサービスの数々にしても、おそらくはイノヴェーションの淘汰なき昭和のスタンダードをそのままに留めているに過ぎない。今日の水準をデフォルトに、時の止まった町で時の止まったサービスに金を落とせば、現代の人間を満足させるには程遠いクオリティについ愚痴のひとつも漏らしたくなる。

 マーケティングでデザイン可能なホスピタリティなんてただの記号、そんなものは都市で買える。いきどまり鉄道の先にはしばしばいかにもお似合いのいきどまりサービスが待ち受ける。誰かに話さずにはいられない、そしてことばを尽くしてもなおそのひどさは語り足りない、そんな経験こそ代えが利かない。

 現実はいつだって想像の斜め下を行く。行き止まりの世界に生まれて、そんな中で人間にできることといえば、地獄を地獄と引き受けて楽しむことしかない。死ぬことくらいいつでもできる。

 

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