地方の王国

 

「おれ」は青森県慈縁郷村の若手村会議員、そうはいっても何かしらの大志があって政治の道に入ったわけではない。東京でのフリーター生活の果て、辛うじて正社員の座にあり着いたものの、もとより日々には「絶望」しかなかった。そんなところを実父からコネで村議へと押し込んでやるとそそのかされ、渡りに船と滑り込んだに過ぎない。

 わずか2500の人口を抱えるに過ぎないその山間の過疎地で、任期途中で村長が突然の辞任を表明する。その地において、村長は代々、無投票で決められてきた。村議らのステークホルダーが協議をし、外堀を固める。選挙を経る必要などなかった。「村のごとば、村ば仕切ってるオヤジ連中だげで決めでぐんだなって。やべぇなって」。

 後任人事に難航するもやがて白羽の矢が立てられたのは山蕗仁吾、村おこしのプロデュースで既に実績を収めてきた44歳、「おれ」の幼馴染でもあった。

 そうして決着したかに見えた村長選びに思わぬ横槍が入る。知事選出馬をもくろむ県会議員が自身の地盤固めを図るべく、傀儡候補を擁立したのだった。その対抗馬は数年前に役場を定年退職した事なかれ主義の小市民、アピールポイントといえば、祖父がかつて村長を務めていたこと、そして盤石の保守政党のバックアップがつくことくらい。

 かくして村に降って湧いた選挙戦で、「おれ」も一度は旧友の支援を誓うも、セフレという弱みを握られた末、寝返ることを余儀なくされて、そしてやがて刃傷沙汰へと導かれる。

 

 カルト、政治、暗殺、とまるで今日の珍事を予見するかのようなプロットが並ぶ、私がこの表題作の存在を知ったのはtwitter経由だった。しかし、このレビューにおいては、予言として読み解くことは断固として拒絶して、ただしそれらが同一線上に並ぶ必然について専ら論じていく。

「おれ」が裏切りに回るまでのロジックは極めて明快なものだった。暴力によってねじ伏せられて、学習性無力感を植えつけられた末に、「やるべきことを見つけた者は幸いである。自分の生命力のすべてをそれに注げるからである」。

 このマインドハックを「おれ」は既に経験していた。大学を卒業するも定職にも就けない「おれ」は街頭でアンケートと呼び止められて、ビルの一室で啓発ビデオを見せられて、そして気づけばセミナー合宿に参加していた。

「どうしてキリンの首は長いのか。それは神様が、人間を楽しませるためにそう創ったから。人間がキリンの首の長さに感心して愉快な気持ちになる姿を見て、神様も楽しい気持ちになれるからなんです。では、どうしてヘビの姿は、あんなふうにひょろ長くて気味が悪いのでしょう? それは神様が、人間を驚かそうと思ったから。人間がヘビを見てびっくりする姿を見れば、神様も愉快な気持ちになれるからです」

「おれ」はそんな珍説を冷笑していた、「ずっとそのつもりだった」。ところが講義の休憩時間、野を散策していると、ふと目にした花に心を奪われる。「神様が、人間を楽しませるためにそう創った」。

「神は、おれらを放置していたわけではなく、つねにちゃんと見ていた。慈しんでいた。たったこの今も――。そう思えたとき、おれはふいに体が軽くなったのを感じた」。

 この宗教の場合はおそらくは経済力や人間関係に基づく日常的な挫折により、そして件の選挙運動においてはむき出しの暴力により、自己否定にさらされてしまえば、そうして生まれた真空にあとはおのずと「やるべきこと」が流れ込む。

 ドラマ『水戸黄門』がなぜに殺陣を必要とするのか。武力で制圧することではじめて印籠が象徴する権威は行使が可能になる。ご老公が尊敬に値するから地に伏せるのではない、抑えつけられた後で各人が適宜、尊敬とやらに近しい何かを幻視するに過ぎない。

 本書においても、切り崩しはいともたやすく遂行される。「食いぶち」をちらつかせるだけで、その無力感を前に「信念」や「友情」など即座に洗い流されて、彼らは簡単に自身の投票行動を正当化するための理由を捏造しはじめる。ファクトより感情、動力源は陰謀論と同じ。暴力で抑えつけられた「おれ」が、その縮小再生産としての新たな暴力主体を担う、これもまた、権威主義の喜ばしきまでの必然というに過ぎない。

 権力の作用は、常に限りなくカルトに似る。

 

 そして、事実は小説より奇なり。

 本書には必ずや併せて読まれるべき名作が横たわる。常井健一『地方選』。

 フィクションを圧倒的にねじ伏せていくこの稀代のルポルタージュの舞台は、「幼な子の聖戦」そのままの自治首長選挙。それら一連の選挙では、今日の政治状況に鑑みれば異例なまでの高投票率が叩き出される。

 例えば大分県姫島村が直近で記録した数値は、86.21パーセントである。そしてこの選挙をもって確定したのが、現職の10選だった。驚くべきはそこに留まらない、2016年に対抗馬が名乗りを上げるまで、親子二代の村長の座は60年にもわたって無投票で決せられていた。

 九分九厘先細りが約束されたその島にあって、政治への高い関心と信頼がこの投票率に現れている、とは残念ながら結論されない。ある村民が言うことには、「地区の行事に補助金が出ても、『世話になった』。村のグラウンドを借りても、『世話になった』。診療所を利用しても、フェリーに乗っても、『村長に世話になった』」、「世話」といっても無論、何もかもが税金をもって賄われている。しかし、彼らにはタックス・ペイヤーとしての自負など欠片も見えない。そして動員されるがままに、まるで壺でも買わされるかのように、「世話」の恩に一票を捧げる。どうしようもない無力にやつれ果て、あまつさえその事実すらも知ることのない彼らが、「世話」という信仰から目覚める日など終生訪れることはない。

 

 あるいは、先の東京都杉並区長選も想起されて然るべきものなのかもしれない。

 タウンシップの復活を掲げて立候補した政治研究者が、わずか187票差をもって現職を下したこの劇的な選挙の投票率は、たったの37.52パーセント。その近代性において全国平均を下回ることはないだろう自治体においてすら、8人中5人の有権者は投票所に向かわなかった、あるいはこう言った方がいいのかもしれない、向かうことさえできなかった。

 対してこのフィクションの中では、青森の山深くで「これまで、政治から遠ざけられてきた女の人だぢが、自分だぢが暮らしやすいように、自分だちで村の政治を動がしていけるようにする……そうでないと、ほんとうの意味で、村は変わりません。社会は変わりません」との訴えがセンセーションを巻き起こす、今日の読者はそこに桃源郷を見るだろう。公選法違反の証拠映像ごとき、検察あるいは裁判所、もしくはメディアなるカルトの番犬どもが嬉々として黙殺することくらい誰だって知っている。

 

「幼な子の聖戦」の中で時の流行歌は謳う。

巻かれろ 巻かれろ 大きな力に

アタマの中を真っ白に 抵抗しないで

巻かれろ 巻かれろ 大きなハッピーに

天から降る蜜の雨  君よ飲み干せ

「庇護と随従のポリティクス」(高畠通敏)のただ中で民主主義を叫ぶこと、それはあるいは、ビリーヴァーに目を覚ませ、と呼びかける試みに限りなく似る。

 

 

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