2018年の伊調馨

 

 今でこそスポーツの一種と位置づけられているが、本来、レスリングはスポーツとはまったく関係のない戦闘技術そのものであった。……

 戦闘能力を磨くためには、筋力トレーニングと弓槍剣を扱う技術のほかに組み討ちのためのトレーニングが必要となる。

 すなわちレスリングである。

 スポーツとはすなわち、近代化された戦争をもって云う、レスリングの黎明期にあって、フォーマットも定まらぬ中で、強豪として台頭した国々を支えたのは、古より引き継がれし「戦闘技術」の系譜だった。

 例えばトルコの場合は「ヤール・ギュレシュ(オイル・レスリング)」、そのはじまりは14世紀のオスマン帝国に遡る。あるいはパキスタンの地にあっては「クシュティー」、ヒンドゥー文化によって培われたこの競技の歴史は1000年を超えるともいう。

 そして日本におけるレスリングがその祖型に求めたのは、柔道だった。

 旅客機などまだまだ望むべくもない、VTR技術もとても手の届かないその時代だからこそ、各々が伝統に照らした最適化解を模索する、結果、まるで梶原一騎の劇画の世界もかくやとばかり、それぞれのお国柄に見合ったキャラが立つ。

 しかし時は流れ1960年、「柔道の足技、剣道の間合い、合気道の手首の攻防、アメリカのタックルから後ろに回るゴービハインドの技術、トルコ刈り、イランのアンクルホールド、ソ連のハイブリッジしながらの投げ技、そして股裂き――」、これらのすべてを「科学的、客観的、総合的に」一冊の体系書へとまとめ上げる革命家が現れる。

 Scientific Approach to Wrestlingアメリカの地にて上梓され、間もなくレスリング関係者にバイブルともてはやされたこのテキストを著したのは、1956メルボルン・オリンピックのゴールド・メダリスト、Shozo Sasahara、あるいはこう表記した方が分かりやすいだろうか、その名を笹原正三という。

 

 かようなミームを引き継いでお家芸ともなり得た日本レスリングの世界は、ところがこの後皮肉にも斜陽の時代を迎える。

 理由はひとつは、レギュレーションへの適応を欠いたこと、さる外国人コーチの指摘、「日本選手がスタミナで優っているのは事実。試合時間が一時間なら、日本は世界のナンバーワンになるだろう。しかし、試合は5分間だ。強豪国はすべて5分間で最大限の力を出すトレーニングを積んでいる。日本がその練習をやっているとは思えない」。

 メソッドを理論的に構築できない、万事においてそうだった。とある元選手は悔悟とともに振り返る。「練習はいきあたりばったりだったし、最初から最後まで実戦ばかり。自分の長所と短所の指摘も、修正も、技術を習得するためのドリル練習も、試合展開のシミュレーションもまったくなかった。コーチは何も教えてくれないから、自分で気づくしかない。日本全体がそういう練習でした。これまで勝ってきた日本の選手は、練習方法も調整方法も技術も、すべて自分で編み出してきたんです」。

 

 長きに渡り「メダルキチガイ」(千葉すず)の需要を満たし続けてきた女子レスリングにおいても、否、ニッチ産業だからこそ、この悪しき伝統は寸分たがわず引き継がれていた。

 2012年のインタビューに既にその予兆はあった。

3歳の頃にレスリングを始めて、その延長線上で自然に身体が動くようになって、それまでずっと感覚だけでやってきました。ところが、まったく異次元のレスリングがあった。……偶然とか力づくではなく、理論通りにと言いますか。攻めるにしても、守るにしてもすべてが理にかなっていて、言葉できちんと説明できるレスリングです」。

 ところがこの「異次元のレスリング」に目覚めてしまった後の国民栄誉賞受賞者は、まさにそのアプローチを知ってしまったが故にこそ、冷遇にさらされていた。

 レジェンド、伊調馨が『週刊文春』に自身とコーチが受けた一連のパワー・ハラスメントを暴露したのは2018年のこと。

 男子選手の世界では半世紀前に既にその実効性を失っていた精神主義メソッドでも、女子レスリングならば世界を制することができた。すべて山の高さは裾野の広さによって規定される、狭小な箱庭は所詮狭小に過ぎないからこそ、うかつにも井の中の蛙にさえも成功体験をもたらしてしまう。当初、協会幹部はこぞって疑惑の火消しに回った、つまり、彼らは昭和スポ根そのままのカルト的流儀が今日においてもまだ何かしらの存在意義を有していることを信じて疑っていなかった。

 この問題を取り上げた調査委員会の報告書が酷評するには、「どれ一つをとって見ても、小さい、せせこましいというのが正直な感想である」。

 本書は単に「日本レスリングの物語」を伝えるに留まらない、紛れもなく、近現代の「日本の物語」の縮図がここにある。

 

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