星空のパスポート

 

 実存という戯言が実効性を喪失して、他者というコンテンツがイリュージョンに過ぎぬことが暴かれたが故の必然とでも説明されるべきなのだろうか、最近やたらとキルゴア・トラウト的、デレク・ハートフィールド的小説ばかり読んでいるような気がする。川本直『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』とか、木崎みつ子『コンジュジ』とか、そしてこの『ジャップ・ン・ロール・ヒーロー』とか。

 本作のテイストは、どちらかといえば、2019年のダニー・ボイル『イエスタデイ』に通じる。この映画は、主人公を例外になぜかビートルズの記憶と記録が失われた世界を描き、対して本書はかつて存在した、ただし誰も知らない「ダンチュラ・デオ」なるバンドのコピーという触れ書きでデビューを果たした新生「ダンチュラ・デオ」が、めくるめく国際的な陰謀劇へと巻き込まれていく、というもの。

 村上龍『愛と幻想のファシズム』のような、安部公房『壁』のような、映画『007』シリーズのような、「知り合い」と聞いて「ともだち」を連想せずにいる方が難しいだろう浦沢直樹20世紀少年』のような、あれ、ちょっと何を言っているのか、よく分からない。

 

「僕」が「ダンチュラ・デオ」に加入したきっかけは、大学時代の音楽サークルに遡る。楽器の嗜みがあるでもない、ライブラリーをひたすらに渉猟しているでもない、あからさまな招かれざる客だった「僕」にできたせめてもの抵抗といえば、メンバーのひとり喜三郎が吹聴して回る他の誰も聴いたことのない「ダンチュラ・デオ」について、軽々しく知ったかぶりをかますことだけだった。

「僕はつい言ってしまったのだ。サークルの秋の合同ライブの打ち上げ会場である渋谷の居酒屋で、即ち全員いる場所で、そのバンド、名前だけは聞いたことがある、と。たった一人の一言で、ダンチュラ・デオなるバンドが、俄かにリアリティを獲得するとは考えていなかった」。

「リアリティ」を裏打ちする要素は、他にもないことはなかった。つまり、オリジナルのギタリストだという喜三郎の父の存在だった。「怪しい主張の全てを首肯するわけにはいかないにせよ、彼の父親に限っては、本当にある程度の音楽活動の実績を持つ人物なのかもしれないという認識が皆に共有された」。

 少なくとも喜三郎の言うことには、オリジナルをめぐる一切の記録がネットやアーカイヴズに現れないのには理由があった。1980年代にアメリカでデビューしやがて旧共産圏に舞台を求めた彼らは、実はCIAのスパイであったために、後に一切の履歴が抹消された、という。

「喜三郎は父親オサヒロと彼らの作品の記憶を頼りに、オリジナルの本分としていた諜報活動とは無関係な、その音楽のみを抽出し、彼らの悲願だったであろう純粋なミュージシャンとしての成功を代行すべく、現代において挑戦している」。この公式「設定」は、デビューにあたっても、広く喧伝されるところとなった。

「設定」に過ぎないはずだった、ところが、その「設定」を超えて、「僕」たちはいつしかこの陰謀に巻き込まれる。

 嘘から出た真なのか、それとも――

 

 冒頭にいろいろと気取りすかした文学史やらのそれらしき先行作品に触れてはみたものの、それ以上に本書に重ならずにはいないひとりの人物がいる。

 その名を「芳賀ゆい」という。

 きっかけは『オールナイトニッポン』の新進気鋭パーソナリティ伊集院光の何気ない一言、はがゆいという形容詞の語感から生まれたこの会えないアイドルは、リスナーたちの投稿による肉づけを重ね、とめどない膨張をはじめる。

 CDデビューや写真集発売、週刊誌上での熱愛発覚程度ならば、お戯れの範疇を超えなかった。しかしいつしか社会現象と化した彼女は伊集院やリスナーの手を離れ、コマーシャリズムへと動員されていく。キャラとはおよそそぐわない放送局のイベント・プロモーションへとかつがれたり、番組内の設定にはまるで準拠しないインタビュー記事が出回ったりするようにもなる。

 私自身はこのムーブメントをめぐる一切の記憶を持たず、後に漏れ聞いたに過ぎない。しかしこのコントロール不能なインフレーションが、あくまで都市伝説的に語り継がれているからこそ、まさに自らの想像において消化するに際しても、あたかも追体験するかのような肥大化に胸ときめかずにはいない。

 ジョン・ケージの「433秒」、その楽譜には何が書かれているでもない。後に現代音楽の最高到達点のひとつとして讃えられるところとなるこの曲には、さまざまな解釈が与えられる。オーディエンスのレスポンスにそれぞれの会場の国民性が現れるだの、演奏者が構えている楽器によっても反応は異なるだの……と。しかし、これらのインフレーションがすべてケージの想定の範囲内で進んでいたはずはない。今なお伝説として語り継がれることにはその初演された日の天候は雨、席に腰をかけたきり鍵盤に手をかける様子のないピアニストを前にうろたえた観客を包み込んだ雨音をまさか作曲家は想定していない。

 

 そう、『ジャップ・ン・ロール・ヒーロー』に話を戻そう、インフレーション最高じゃんという話。

 あるいはそれをもって破綻ともいう、しかし無責任な一読者に言わせれば、それでいいのだ、面白くさえあれば。多少のネタバレをいえば、本書はその大風呂敷の回収場所を求めるように、「僕」らが巻き込まれた出来事にある種の必然性をもたらすギミックの説明を残して閉じる。あえて言う、しゃらくさい、と。どこに連れ去るのかも知らせないまま、読む者を巻き込んでいくこのドライブ感、その瞬間が爽快でさえあれば、なんでそうなるんだよ、という答え合わせなんて別にいらねえじゃん、と。

 突然、アルルがしゃがみ込み、腕を前方に投げ出した。カウボーイハットではなく、その連れの女の近くに座っていた老人の上腕にナイフを投げつけたのだ。ナイフはシャツを貫通してぷるぷる震えながら光る。血液がチェック柄のシャツに沁みていく。ナイフの突き刺さった左腕の先端から何かの金属が床に落ちた音がする。老人の足元に小さな拳銃があった。……老人の方は叫んだり泣き喚くこともなく、もう片方の手で冷静にナイフを引っこ抜き、アルルめがけて投げた。アルルは避け、ナイフは後ろのカウンターに刺さった。アルルは老人へと向かって走り、老人は座っていた椅子を彼女めがけて押し投げた。スライドして迫ってくるそれをアルルは飛び越え、空中で老人の顔を蹴ろうとする。老人はアルルの身体の下にもぐりこむように身を屈めた。店内の隅にいたいかにもギークっぽい小太りの黒髪の白人が、老人を射殺した。

 このスピードの他にエンターテインメントとして何を求める必要があるだろう。脳内に引き起こされるだろう、細かなカット割りの疾走感には、いかなるアクション映画をもってしても太刀打ちできるはずがない、なぜならば、視覚の処理能力を超えたインフレーションがこの刹那、読む者には喚起されているはずなのだから。

 耐えがたく鈍重なリアルにこんな愉楽が降り注ぐはずもないことくらい、誰だって知っている。

 

 ことばの中では何でも言える、何でも書ける。

 ことばという媒体の本性は、実にインフレーションにこそある。

 現実は決してことばを超えない。

 

shutendaru.hatenablog.com

 

shutendaru.hatenablog.com