マックスビューティ

 

 これが、わたしたちの初めての出会い。17歳の夏の始まり。

 それから起きたことに比べたら、どんなきっかけだったかも忘れてしまったSNSでのやりとりなんて、何の意味もないように思えた。わたしたちは特別に気が合ったとかそういうわけでもなかった。

「親がむかつく」という共通点なら、お互いそういう人たちを随分とフォローしていたし、されていた。その中には、もっと沢山のやりとりを交わしている人もいた。

 でも、その中の誰ひとりとして、わたしたちのようにはならなかった。もちろん、「どこ住み?」とか他人を真似てふざけて尋ねた時に、同じ県で、同じ市で、よくよく聞いてみたら5キロと離れていないところに住んでいるという偶然がなければ、こんなことにはならなかったと思う。でも、どうしてそうだったかなんて誰にもわからない。どうしてそうじゃなかったのか、誰にもわからないのと同じように。

 

「親がむかつく」、そこまでの熱量があるわけでもないけれど、彼女たちが自らに付したかりそめのハンドルネームは、パパイヤ、ママイヤ。

 パパイヤが言うことには、父親はアル中で家には寄りつかず、母親も仕事に追われてか、ほぼ在宅することがない。ママイヤこと「わたし」が言うことには、売れっ子画家の母親は娘ひとりを日本に残してヨーロッパ暮らし、会ったこともない父親は日本とベルギーのハーフ。

 乗代雄介の作品世界の特性というべきか、あくまで描かれるのはこのふたりのミーティングのシーンだけ。私小説的なアプローチを笑い飛ばすように、互いが互いを捉えるそのフォーカスの外側で例えば、彼女たちがどんな食事を摂っているのか、とか、どんな動画やインスタに時間を消費しているのか、なんてことをモニタリングしたりはしない。もはや単なるマーケティング的なセグメント表示のための記号、タッチパネル未満の何か、ただしある種の作家にとっては今なおキャラクターの素顔とやらを肉づける生命線となるだろうそれらのファクターに触れようとはしない。

 もちろん、そうした断片は彼女たちの会話に表われはする。しかし、いかにもややこしいことに、私の知る限りの過去作からの性向として、とりわけこの作家においては、言った通りをそのまま素直に鵜呑みにするわけにいかない、という事情がある。

 さながら西原理恵子ヤマザキマリ毒親二世架空対談のような彼女たち、「信頼できない語り手」が訴える不和な親など実はこじらせティーンエイジャーによくある虚言癖に過ぎず、一切合切がどこかのマンガあたりから引っ張ってきたでっちあげでしかなかったとして、何の不思議があるだろう。

 

 ただし、それはあくまで過去の傾向と対策に準ずる限りにおいて。

 作家性を一言で表現すれば、文字通りの裏切り、書き連ねた表をめぐる書かれざる裏の種明かし、伏線回収と称するには時にあまりに露悪的な。

 そして本作は、そのコードさえも華麗に裏切る。

 身体性と知性、相互補完のバディ感を滲ませつつも、ただし彼女たちは終始、パパイヤとママイヤというハンドルネームで互いを呼び続ける。彼女たちは名無し性を破ろうとはしない、それはあたかも中毒患者のアノニマス集会を真似るように。情報量の絞られたうわべのみの関係だからこそ、束の間のぞく深淵がある。誰かを聴き手に持つことではじめて生まれることばがあって、ことばをもってアディクションに苛まれた己を癒す。知ってか知らずか、本書はそんなヒーリングの現場を切り取る。執拗に表のみを描き続ける作家だからこそ、裏を裏として隠し持つことの幸福が不意に説得力を帯びる。

 

「学校だと色々あんだよ。家とか親とか部活とか勉強とか全部セットっていうか。それはそれとして、とかできないの」。

 SNSでは足りない何か、ふたりきり――とも限らないのだけれども――の干潟での会話だけが「それはそれとして」を許す。それぞれに親との関係性に葛藤する彼女たち、言い換えれば安全基地の最小単位としての家庭すらも持たない彼女たちは、ハンドルネーム以上の関係性にあえて踏み込まないからこそ、そこで秘密を打ち明ける、安らぎを知って涙する。 

 浅はかに過ぎる世界の中で、ゆりかごから墓場まで「家とか親とか部活とか勉強とか」そのすべてがFacebookで掌握可能な人間力(笑)テストの場でしかないことはもはや万人の知るところとなった。人間がふたり集えば、そこに政治が生まれる、権力が生まれる。換金価値を取り去ればハラスメントしか残らない、そんな惨めなゼロサムゲームを免れたければ、「美しくて汚くて寂しくて優しいこの場所」を生きたければ、人間は顔を失うしかない、名前を失うしかない。実存とかいう稚拙に過ぎるおとぎ話を焼き討って、アイデンティファイを放棄して、抽象的な存在へと互いを解消するしかない。「みんな勝手、勝手すぎる」、だったら誰しもが目を覚まして「みんな」であることをやめるしかない。

 

 パーソナリティpersonalityの語源はラテン語persona、すなわちおもて。名前や帰属を仮面のように付け外しすることで、束の間そこに紐づけられた誰かではない別の何者かであることを享受できる、言い換えれば、その場合においてすらあくまでおもてに縛られた何者かであることを逃れることはできない。仮‐面はあくまで仮のまま、真の面、真の人格などそもそもどこにもありやしない。

 ただひたすらにおもてを見据える眼差しの地獄の中で、人は誰にでもなれる、つまり、誰かにしかなれない。

 

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