君の名は

 

犬神家の一族』は、日本における探偵小説の代表作の一つとして人口に膾炙した作品であるといってよい。にもかかわらず、その内容についてはどこまで明快に理解されているのか?という疑問が頭をもたげる。

 それというのも、この物語はとにかく登場人物の相関図が尋常でない複雑さを呈しているからである。……

 湧き上がる幾多の疑問を実際に法制度に照らして整理するには、犬神家および関係者の戸籍がどのようになっているのかを考察しなくてはならない。そう、この作品を読み解くカギは、ずばり戸籍にある。

 戸籍と聞いて、その役割を即座に思い浮かべられる人はどれほどいるであろうか。端的にいえば、戸籍は「日本人」の身分証明となる公文書である。出生、死亡、結婚、養子縁組、離婚、離縁、帰化など、一生のうちに個人に生じる身分の変動を記録するものである。何より日本の戸籍の特徴は、「氏」を同じくする「家族」(現行法では、夫婦と非婚の子)が編製の単位とされている点にある。つまり、戸籍は親子の血統を証明する役割をもち、氏という家名を中心線として先祖から子孫へと続く“家の系譜”とされる。

 したがって、本作にあらわれる犬神家の遺産相続や関係者の死亡をはじめ、妾、婚外子、婿養子、氏姓といった「家族」をめぐる諸問題、さらには犬神家関係者の徴兵や復員や戦死といった「戦争」をめぐる問題と、いずれも戸籍と不可分の関係にある。

 そこで本書では、戸籍を軸として『犬神家の一族』という物語を読み解いていくことで、事件に関わる法律上の問題群を解明し、本作のもつ醍醐味を再検討してみたい。

 

 巻末の経歴を見る限り、この筆者は一貫して戸籍制度にまつわる著作を物してきた政治学研究者だという。ということは、とつい訝しみ早合点する、どうせ一般読者を自らの専門分野へと誘導するための呼び水として『犬神家の一族』を取り上げているに過ぎないのではなかろうか、と。

 しかし実読して程なくそんな邪念は吹き飛ばされる。戸籍というトピックに基づいて見事なまでに快刀乱麻を断ってくる、その興奮を前にページを繰る手がどうにも加速せずにはいない。

 紛れもない、これをどうして『犬神家の一族』研究の超一級品と讃えずにいられるだろう。

 

 のっけから腰が浮く、横溝の本文に従えば、佐兵衛の逝去は「昭和二×年二月一八日」、そして一連の惨事は同年の秋から冬にかけて引き起こされた、とある。なぜかは知らない、しかし事実、横溝はこの年号設定を曖昧にぼかした。

 市川崑は「昭和二二年」との想定の下で映画化し、後の各種ヴィジュアライズドにおいても、このフォーマットは踏襲された。ところで他方、テキスト上で割り振られた人物の数え年からの推定を積み上げる限り、どうやら「昭和二四年」とした方が収まりがつくという。

 漠然とミステリーをめくっていく分には、敗戦後であることを踏まえてさえいれば、いずれを取っても大差がないようにも思える。しかし、戸籍というフィルターをかけると一変、このわずか2年のギャップが決定的なものとして現れずにはいない。

 というのも、昭和二二年五月三日をもって日本国憲法が施行され、「この新憲法は国体観念や家父長制など明治憲法下で是認されてきた数々の秩序や価値観を放棄するものとなり、それまで国民生活をつかさどってきた諸々の法体制がたたみ掛けるように変革されていった。/……ここにおいて、戸主の地位をはじめ、家督相続、妻の能力の制限などの新憲法に抵触する民法の規定が廃止された」。従って、×に代入されるべき数字ひとつで、家督相続の有無が大いに関わらずにはいない。

 

 そして横溝本人は、といえば、どうやらそのような問題点の有無すら理解してすらいなかった、らしい。おそらく彼にしてみれば、帰還兵の存在が現実味を帯びる戦後まもなくという以上の意味など必要はなかった。

 テレビドラマの遺言公開あるある、名門旧家の豪邸に呼び集められた親族が、その場で開封された内容をめぐって狂喜乱舞を繰り広げる。しかし現実の相続シーンで、あるいは『犬神家』に端を発するかもしれぬこんな阿鼻叫喚が展開されることはあり得ない、と筆者は語る。

 まず明治民法以来、今日まで引き継がれる遺言の有効性を担保する手続きに「検認」なるプロセスがある。裁判所において行われるこの「『検認』というのは、相続人に対して遺言の存在およびその内容を知らせるとともに、遺言書の形状、加除訂正の状態、日付、署名など遺言書の現在の内容を明確にする手続きである」。つまり、改めての開封を経るまでもなく、当事者一同は予めその内容を踏まえていないはずがない。ちなみにつけ加えれば、その開封は私邸ではなく裁判所において遂行されねばならない、ともされている。

 ましてや、被相続人の意思がどうあれ、民法は「遺留分」という担保を用意している。何はともあれ、佐兵衛の実子たちには、結婚云々をめぐる遺言とは無関係に、2分の1の取り分(それを相続人の頭数で割る)は確保されてはいる。

 究極のそもそも論を重ねれば、GHQ財閥解体はなぜにこの世界線には存在していないのか、という疑問へと至らざるを得ない。

 彼らが、あるいは横溝が、これらのことを知っていたら――そもそも事件は生まれてすらいない。

 

 世の中には、こうした指摘に対して重箱の隅をつつくだの、後出しじゃんけんだの、というような非難を注ぐ向きもあるだろう。本書のアプローチには、ネタバレポリス出動案件がふんだんに盛り込まれてもいる。

 そういった残念な人々には必ずしも無理強いはしない。

 しかしそれでも言い切れる、本書は横溝のくどくどしい本編よりも圧倒的に面白い、と。

 いずれの作品をとっても、金田一耕助とは連続殺人の実行を一通り傍観した後に、クライマックスを迎えるべく召喚される機械仕掛けの神に過ぎない。いうなれば事件記者的な眼差しでかき集めた状況証拠の貼り合わせに信憑性を与えるべく付された二つ名が「名探偵」であっただけのこと。

 しかし、遠藤正敬なる「名探偵」は違う。犬神佐兵衛、あるいは横溝正史自身が憑かれた戸籍の因縁を解き明かすばかりか、めくるめく知識をもって鮮やかに問題軸をひもとくことで、そもそもこのような惨事が引き起こされる必要すらなかったことを説得してしまうのだから。

 知性とは実に、血塗られた歴史を未然に防ぐためにこそある。

 

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