人形の夢と目覚め

 

 安田浩一さんと「銭湯友だち」になったのは、数年前のこと。ときどき待ち合わせて銭湯に行き、湯上がりにビールを飲む。つねに反差別の現場を奔走している安田さんと飲めば、どうしてもそういう話題になる。

 世の中には差別を助長する本、歴史を捻じ曲げる本があふれている。しかも売れている。悔しい。ふざけるな。……

 ――おもしろくて売れる本をつくって、対抗すればいいじゃん。

 そうだ。歴史修正主義を蹴っとばすおもしろい本をつくればいいんだ。ひがんでる場合じゃないぜ。金井カマキリは斧を持ち上げる。安田さんはほほえんで言った。

「一緒につくりましょうか」

 わたしたちはお風呂が好きだから、いろんなお風呂に入る本はどうだろう。湯けむりの先にある歴史の真実を紐解く。最高に気持ちよくて、まじめな本をめざすのだ。首を洗って待っていろ、歴史修正主義! こうして金井カマキリと安田さんは斧の先にバスタオルを引っかけて旅に出たのであった。

 

 かつて日本のオフィシャルな地図からその存在を隠蔽された島がある。瀬戸内海に浮かぶ周囲4キロの小島、大久野島という。機密に秘されたのにはもちろん理由がある。

1929年から終戦までの間、この島ではイペリットやルイサイトなどのびらん性ガス、さらには青酸ガス、くしゃみ性ガス、催涙性ガスなど約6600トンもの毒ガスが製造されたのである」。

 武器としての実戦投入以前の問題として、まずこのガスは工員たちを傷つけた。異例の高収入に釣られて島に乗りつけた若者たちは、到着のその瞬間に夢から覚めた。

「島に乗って島の桟橋に上がった。途端、異臭ですよ。目が痛い。鼻が痛い。喉が痛い。島へ上がった途端ですよ、これは一般的な薬品工場ではない、とわたくしは思いました」。

 もちろん、事前にこのようなリスクは一切聞かされていない。当然だった、トップシークレットなのだから。そして無論、たとえ家族であっても、ここで目撃したこと、従事したことについての他言は許されなかった。

 皮膚についた化学物質や異臭を洗い流すために、そんな彼らが湯につかる。

 束の間の癒し、つい同僚相手に仕事の愚痴のひとつも漏らしたくもなるところ、しかし、そんな風呂場でさえもすわ憲兵が紛れ込んでいないとも限らない。

 

 たかが入浴程度で工員たちがダメージをブロックできるはずもなかった。

「平衡感覚がなくなり、咳き込むことが多くなり、痰がしょっちゅう絡んだ。風邪をひくと、息が苦しくて死ぬ思いだった。毒ガスの飛沫を浴びて首筋に十数個の水泡ができたこともあった」。しかし、そうした不調すらもほんのプロローグに過ぎなかったのかもしれない。いよいよ後遺症が露見するようになったのは戦後、1950年代のことだった。「少し動くだけで息が切れてしまう、夜通し咳が止まらずに眠れない」。吐血して死んでいく、そんな壮絶な患者が数多報告されるようになる。遺体を解剖すると、気管深部に腫瘍が見つかった。「みな、20代から40代の働き盛り。共通するのは、『大久野島で働いていた』経歴だった」。

 

 洗い流せないのは、身体的なダメージだけではなかった。

 その生き残りの「語り部」――といって彼もまた慢性気管支炎に蝕まれてはいる――が、静かに怒りをたたえて言う。

「単なる被害者じゃないんですよ、わたくしは」。

 そして、彼が「加害者」となった事実は現在進行形で引き継がれる。中国へ持ち込まれ、そのまま地中に遺棄されたガスが、今世紀に入ってすらも時に犠牲者を生む。

2003年、廃品回収の仕事をしていた女性は、廃品として持ち込まれたドラム缶を解体した際、ガスを浴びてしまった。2004年には川で遊んでいた少年が、土の中に埋まっていたガス弾に触れてしまう。こうした遺棄毒ガスの被害者は中国全土で3000人を超えると言われる」。

 一度己に「鬼」を宿した「語り部」は罪責の念に苛まれずにはいられない。「戦争が、わたくしたちから人間の気持ちを奪いました」。

 この後遺症は生涯続く。

 

 銭湯の話をするはずが、いつの間にか、戦闘の話ばかりしている。

 確かに、奇縁がもたらす思わぬミラクルの瞬間が訪れないことはない、ルポルタージュとしての香り高さを全く欠いているとも思わない、あとがきによればコロナの影響で大幅なプラン変更を余儀なくされたともいう、だがあえて語弊しかない物言いをすれば、このテキストは「おもしろい本」には仕上がらなかった。

 チャーリー・チャップリンが言うことには、1人を殺せばただの殺人犯、ただし100万人を殺せば英雄、科学は時にその可能性の扉を開く。毒ガス製造に携わった戦中の彼らは、あるいは自らが「英雄」になる夢を見たかもしれない、しかし現実といえば、自らの内なる「鬼」に生涯にわたり憑かれ続ける、それは例えばR.オッペンハイマーA.アインシュタインさえもそうあったように。

 当人たちの苦悶にひたすら目を伏せて、彼らを無邪気に「英雄」と称えることができたなら、八紘一宇の愛国神話ビリーヴァーにとってどれほどそのテキストは「おもしろ」かったことだろう。本書が「おもしろ」くないことは何ら恥ずべきことではない。それはつまり、ひとつも「おもしろ」くないファクトと誠実に向き合ったというその証なのだから。

 ひとっ風呂ごときでは洗い落とせるはずもない歴史の垢がここにある。

 

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