僕が僕であるために

 

 藁半紙が光って見えたのは十三年の人生で初めてだった。

 エアコンが壊れたので教室の窓が開け放されていて、制汗剤と、シャンプーと、洗っていない上履きと、手の甲についた唾液の乾いた匂いが攪拌されていた。

 中央で端と端を結ばれた二枚のカーテンが空気で膨らんでブラジャーになった。窓際の席で横面に胸を押し付けられながら、前から配られたプリントを受け取った。いつも通り読まれることなく家で揚げ物用の紙になるはずだった保健室だよりの見出しが目に入った。

『低体重は月経が止まる危険性があります』

『将来のために過度なダイエットをやめましょう』

 その日の夜から、炭水化物を抜くのが始まった。母に何か言われたら、食べ過ぎると眠くなって勉強や部活に身が入らなくなるから、と答えた。元々平均体重より痩せているほうだったので、生理が来なくなるのはあっという間だった。どうしてこれが禁止されているのか分からなかった。

 

 読みはじめてしばらく、どうにも誘われずにいない困惑にページを振り返って確かめる。

 明白に一人称視点で構成された文体は、にもかかわらず、「わたし」や「ぼく」や「わがはい」といった主語を取らない。女子高内でシーザリオじみた容姿から少なからぬ揶揄を込めて「松井様」と呼ばれる「まどか」なる人物がどうやらこの視点のプレイヤーらしいことが分かってくるのだが、それってこちらの読み落としから来る錯覚じゃないよね、と不安に駆られてめくり返す。

「私」を「私」と呼ぶことができない、主体という観念を自らに見出すことができない、この主語の選択こそが本書のありようを表象する。

 

 こんなテキストを数か月前にも読んだことを思い出す、インタビューに際して専ら自分のことをペンネームの「水木さん」と呼び続けるあの人、水木しげるのことを。彼の場合はある種、シンプルといえばシンプルだった、戦争体験というトラウマから自己同一性を手放さざるを得なかったその症例が「水木さん」というその主語に何よりも雄弁に凝縮されていたのだから。

 しかし、まどかにはそうした明白なきっかけが横たわっているでもないらしい。例えば性的虐待の過去から己の身体性を突き放すことを強いられた、といった因果が示唆されることもない。未成熟ぶりを露骨に象徴させるように、幼児が自らを指して〇〇ちゃんはねえ、と言う例の習慣を10代に持ち越した、ということでもない。

 とりあえずまどかにとっては単にデフォルト、それはまるでアクション・シューティング・ゲームにおいて、一人称視点と三人称視点がないまぜになったような、あの独特なカメラ・アングルにどこか似る。

 

 放課後、まどかは「人と会う」。同級生に言わせれば「彼氏」、しかしまどかにはしっくりこない。

「うみちゃんのことを彼氏と呼ぶのは何となく嫌だった。恋人というほど甘ったるくもなく、相方というほどくだけた関係ではなく、最近流行りのパートナー呼びも、中身が伴わないハリボテの名称に感じられた。付き合っている人、というのがまどかの中で今のところしっくりくる名称だった」。まどかが求めていたのは「かけがえのない他人」、そのおぼろな原型は『ぐりとぐら』、しかしうみちゃんとの間にその関係性を築くのは難しそうだ、とは気づいてもいる、だからとりあえず「付き合っている人」と呼んでみることにする。恋人を求める相手に請われるままに、もしかしたらを求めて、とりあえず「うみちゃん」の磁場に入ってはみた、その相手がたまたま女性なるタグで割り振られる属性持ちだっただけのこと、そこにLGBTQにコミットするといった自意識は微塵もない。

「嫌なものは嫌だ」。まどかの行動原理は至極シンプルなものだった。いわゆるモデル体型に憧れがあるわけでもない、性同一性障害の葛藤を内包するでもない、ただ「股から血が出るのが嫌なだけで……美しいとか、汚いとかは、どうでもよかった」。

 このテキストの中で、彼女の選択はその何もかもが「嫌なものは嫌だ」という消去法に従って決せられる。何かが好き、何かがしたい、そう言い切れるものはひとつとして現れない、主体として生きるためのモティヴェーションを何も持たない、だからまるで他人を観察するように「まどか」と呼ぶ、「私」はいない。

 やがて彼女はそのことを否応なしに突きつけられる。窮地に立たされたSNS越しのクラスメイトに何かのレスポンスを返そうにも、返せない。浮かぶフレーズといえばその何もかもが、「どこかで聞いたことのある定型文のような言葉ばかりだった。/……定型文ができるのは保守だけで、何の革命も起こせない。状況を変えられない。変えなくてはいけないのに」。

 そして結局、彼女は検索にすがる、もちろんそこには定型文しかないことを知りながら。

 

 嫌なものはある、△△ではない何か、としてひとまず自分を規定できはする、でもしたいことやものは何もない、向かうべきヴィジョンだってない。この作法、何かに似ている。アーリア人であることとはつまるところユダヤ人でないという以上の含意を持たないし、白人であることとは黒人でもヒスパニックでもアジア系でもないというただそれだけの言明に過ぎない。自分がひとまず身を置かない属性への否定によって吹き上がることしかできない、あの差別主義者のロジックそのままをまどかのメンタリティはゆるふわに表現しているに過ぎない。

 最終盤、まどかはとある人物から善意をかけられる。彼女は当初、その意味が分からない。相手が優しくしてくるのは何かしらの下心があるから、そんな損得ベースでしか他者の行動を理解できない彼女、自らの方向性を立てられない彼女は、「恋愛じゃないと他人に優しくできないとか、そんなわけないじゃん」と言われても、「すいません」と返すことしかできない。どころか実のところ、「女のにおいがしない女は共有できる彼氏のように扱」う、そんな定型文のやりとり、「恋愛」ですらないコピペ的なお約束しか知らない。

「私」が「私」であるために、リヴィング・デッドに囲まれたこの国では、こんな保育園レベルからやり直さなければならないらしい。

 

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