最後のニュース

 

 筑紫哲也さんについて書く。と言っても、これは筑紫哲也さんの評伝ではない。第一、僕は73年余に及ぶ氏の生涯のほんの一部しか関わっていない。評伝を記すことなどとても僕の任ではない。けれども、そんな人間がこれから、氏がひんぱんに登場するストーリーを書こうと思う。

 書き記しておきたいと思うのは、僕が氏とともに関わったテレビのニュース報道番組『筑紫哲也NEWS23』と「その時代」について、だ。テレビ報道という分野で僕らがともにした時間の記憶だ。

 ある時は輝きを放ち、またある時は世間からのきびしい批判を浴び、右往左往しながらもさまざまな人間が行き交い、あれほど自由に、あれほどのびやかに、苦闘を重ねた時代が実際にあったということを書き残すこと。そんなことに意味を見出す思いが今現在ほど強くなったことはない。

 

 オウム真理教阪神大震災、沖縄問題――本来レビューというならば、こうした歴史的に重要なテーマ軸をテキストの論旨に沿ってまとめたものを切り貼りすべきところなのかもしれない。しかし、ニュースという世界の断片の、筑紫が取り上げたその断片の、筆者の着目したその断片の、さらにその断片を私が改めて再編集してみせたところで、それが何になるというのだろう。

「言ったが勝ち。書きこんだが勝ち。それが今のことばの価値!」(野田秀樹)そんな時代にことさら「TBSは死んだ」をクローズアップしたところで、せいぜいがバカへの餌付けという以上のいかなる機能も持たない。

 だからここではあえて、「我が国の将来の問題」を「深刻な顔をしてしゃべ」るのではなく、「問題は今日の雨 傘がない」ことを説く筑紫哲也、「『天下国家』をしかめつらしく論ずることが『天下の一大事』と思い込む風潮に向かって、同じ『天下』でもこちらには天から下りて来る雨の方が問題なのだ」と喝破する筑紫哲也に焦点を当ててみる。

 

「筑紫さんのように本気で『文化がわかんない奴に何でニュースのことがわかるんだい?』と言い放つ日本において残念ながら数えるほどしかいない。誤解しないでいただきたいのは、筑紫さんはニュースキャスターでありながら、文化『も』よくわかる、という意味のことを言っているのではない。文化はニュースだ、いやもっと言えば、ニュースは広い意味では文化の一分野にしかすぎない、ということを言っているのである」。

 本人が言うことには、「芝居、演劇、ミュージカル、コンサート、イベント、野球場……けっこう出かけている」。事実、『23』にもしばしばそれら文化ジャンルの著名人がゲストとして登場していた。筆者が目撃したところでは、そうした会場に足を運んだ後に局入りするため、到着が22時を回っていることも珍しくなかった、ともいう。

 あるいはこうした証言から、「ニュース」なんてせいぜいがメシの種で、本当のところ興味など欠片もなくて、遊んで暮らしたかったんじゃん、といった印象を受ける向きもあるかもしれない。

 そしてその感覚は必ずしも間違ってはいない。自分にとって好きなことが他にある、「天下国家」ごときよりも大事なことが他にある、だからこそ、それらを守るためにこそ、他人がそれらを享受する自由を守るためにこそ、時に「天下国家」だって義憤とともに論じなければならない。隣人を自分のように愛しなさい、自分の愛し方すら知らない者が、どうして他人を愛することができるだろう。

 かのヴォルテールが言ったとされることには、「あなたのおっしゃることには賛同できない、でも、あなたがそれを言う権利については我が死を賭してでも守る」。言論の自由を端的に表したものとして今日に語り継がれるこの句の精神をまさに筑紫は地で行った。好きなことのひとつでもあれば、自ずと言いたいことも芽生えてくる、それは必ずや他の者だって抱いていることだろう、その能動的な感情を侵犯する行為は許さない、その意味で「文化はニュースだ」。楽しみのひとつもない輩にできることといえば、自らのポジションを保つために阿諛追従のアクロバティック擁護を繰り出すことか、赤の他人の炎上などのマイナスのインセンティヴに狂喜乱舞することだけ、まさしく今日のさもしい風景そのままに。

 筑紫の盟友、立花隆は言った。

「僕らは自由にやっている。プロの人間なんだから、興味があるからやるんだ。興味がなくなったらやらないんだ」。

 

「文化はニュースだ」、このことは何も言論人にのみあてはまるものではない。少しでも考えてみればわかるだろう、日常生活において「まとも」でない人間が、こと政治参加や投票行動においてのみ「まとも」な選択を取ることなど万に一つもあり得ない。見たいものだけを見る、見たくないものは見ない、そんな彼らの代表者は当然に何もかもがグロテスクな己の似姿でなければならない。

 嘘つきが「まとも」であるはずがない、差別主義者が「まとも」であるはずがない、カルトが「まとも」であるはずがない――こんなことは「ニュース」を通じてはじめて知ることではない、日常から、「文化」から予め分かっていなければならないことである。好きを通じて培われた「まとも」が分かち合われてはじめて、彼らの異常性を前提に、「ニュース」は「ニュース」であることができる。「文化」が「まとも」であることを担保できなくなったとき、常識commonsenseがもはや常commonとして機能しなくなったとき、それはつまり、「まとも」が「ニュース」から消え去るポスト1995社会の到来を必然的に意味することとなる。

 

 鴻上尚史は証言する。

「すごくいい時でも何かしら批評したら、今度は悪い時も批評しなきゃいけなくなるから、人はたぶん批評をしたくなるものだと思いますけど、面白くても、面白くなくても、とにかくただニコニコしながら来てくれて、それで、それこそ色々な人を紹介してくれたんですよね」。

 私はいいとは思わない、けれどもそれをよいものと思う人もいる、だから倫理的な逸脱を犯さぬ限りにおいて、面と向かってその領域を土足で踏み荒らすことはしない。そしてそのために、「異論反論オブジェクション」できる場を用意する。

 筑紫が体現してみせた、そんな優雅な時代はとうに過ぎ去った。

 手前勝手な論破をほざくバカなどある面ではまだかわいい、何はともあれ、そのコンテンツに触れた上でそう言ってはいるのだろうから。

 今の世に溢れる彼らといえば、「映画を早送りで観る」どころか、グーグル1ページ目のレヴューを頼りにその場限りのコミュニケーションの具として話題を消費しやり過ごす、「多事争論」など夢にも思わず、感情すらもコピペ化させたアバター未満の何かばかりなのだから。

 彼らにとってはそれが「文化」で、なるほど確かに、「文化はニュースだ」。

 

 遊びをせんとや生まれけむ。

 そんな追憶の合わせ鏡を筑紫に見る。

 今日は、こんなところです。

 

 

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