自分だけの部屋

 

 本はかさばる。その上に重い。だからこそたくさんの本を持っている人は、頭をかかえる。部屋の広さや床の強さと本の大きさや重さとの間で、どうやってバランスをとるか日夜苦慮することになる。

 筆者はそれほど熱心な本読みではなかった。あちこち旅をしたり、体験を重ねたり、そして人に話を聞いたりして、足で稼いで書くタイプの書き手だった。しかし、資料が必要な執筆をするようになってからは、必要にかられ、蔵書を急激に増やしていった。そのために書斎や生活空間のかなりの部分が本に侵食されたり、床が抜けるかもと悩んだり、という経験を強いられてしまった。

 逼迫した状況に陥ったことで、増え続ける本と居住スペースのバランスをどう取ればいいのか、そのためには紙として持っている必要があるのか、電子化という方法は福音となるのか、電子化した本は紙の本同様に読めるのか、紙の本と電子書籍はどう違っているのか――といった本との共存方法について否応なしに考えさせられることになった。

 状況を打開すべく、あちこちに出向いて話を聞いたり、資料を読んだりして、自分なりに本との暮らし方を模索し、その経緯について記録したのがこの本である。筆者のことに限らず、各人のさまざまなケースを記しているから、蔵書整理に悩んでいる人の解決策のヒントに少しぐらいはなるのかもしれない。ならなくても、筆者や各人の、本との格闘の様子をおもしろがってくだされば幸いである。

 

 と、上記の通りの前書きを見れば、てっきり本と所有者をめぐる、極めてパーソナルでクローズドな関係について著されたテキストかと思われることだろう。床が抜けるほどに紙媒体を入手できる経済力とそれを読み込む時間を両立させられる人間なんてそもそもにおいてごく限られた存在なわけで、そういうレアケースをめぐるエッセイが展開されるのだろう、とでも見ていた。

 しかし途中、不意を突かれる。

 ある日、所有者が亡くなったら――ごくごくプライヴェートな存在だったはずの本という物体の、隠しようもない側面があられもなく立ち上がる。

 

 遺品としての蔵書の整理をめぐる幸福なサンプルとして、例えば草森紳一の場合。

 2008年の急逝までに、この博覧強記が2DKの一室に貯め込んだテキストは、和綴じや中国の原書からポルノに至るまで、実にざっと32000冊、身内だけでは到底手に負えるような代物ではなかった。しかし、内縁のパートナーの呼びかけで、生前の友人や編集者ばかりか、一面識もなかった愛書家までもがその整理作業に手を挙げる。それは単に紙の束に刻まれた文字列ではない、「開けてみると注釈のところにまでちゃんとチェックがついて」いる、故人の「物書きとしての凄み」を凝縮させたアーカイヴズは、最終的に大学や出身地に安楽の場所を見出すに至る。パートナーは振り返って言う。

「このプロジェクトがうまくいったのは、人と人とのつながりのたまものです」。

 

 対して、翻訳家Tの父の場合(テキスト内では実名なのだが、あえてイニシャルに伏せる)。

 新聞記者をしていた父のDVモラハラに耐えかねて、一家はやがて離散、亡くなるまでの約20年間を彼はひとりきりで過ごす羽目に陥る。物が捨てられないその性分は、自業自得の独居を余儀なくされたことでいよいよ加速、その死の前年、8年ぶりにかつて暮らしたその住まいを訪れたTは驚愕に駆られる。

「家の中は八年前とはくらべものにならないほど異様な相貌を帯びていた。それは文字どおり、ごみためだった。十数年間、掃除したことのない床には埃がびっしり積もり、人の通るところにだけ凹んだ轍ができていた。父はあいかわらず本に埋もれて居間の天体望遠鏡の前にいた。以前とちがっていたのは、腰を痛め、くの字型にからだを曲げたまま、床に横たわっていたことだった」。

 果たして父が亡くなり、その整理はTに委ねられる。レアなテキストもあるにはあった、しかしいかんせん、状態が悪い。古本屋に依頼した上で、それでも引き取りのつかなかったものはゴミとして捨てる。それはまた、「辛い思い出と別れを告げたいという気持ち」の表出でもあった。

 しかし同時に多少の悔悟をにじませて呟く。

「本棚は父の脳内世界です。それは僕にとって分かりようのない世界です」。

 蔵書という故人との対話の糸口は、今となっては取り戻しようもない。

 テキストが示すのは、単に書き手の「脳内世界」に留まらない、それは同時に、読み手、持ち手の「脳内世界」を表象する。

 

 これらのくだりがひときわ突き刺さらずにはいない、ごく個人的な理由がある。

 というのも今、祖父母宅の解体が決まり、整理作業に勤しんでいる最中なのである。

 もっとも彼らには、蔵書と言えるほどのアーカイヴズはない。故障したのに処分されぬままため込まれた昭和家電やらは山のように出てくるのに、書棚は呆れるほどに乏しく、場の過半を占めるのは、九分九厘訪問販売を断り切れなかった結果に過ぎず、まず開かれたことすらないだろう、子ども向けに咀嚼された世界文学全集だった。

 ないということは、どんなあるにも増して、時に雄弁に何かを語ってしまう。

 

 そんな中、たった一冊だけ、私がつい回収せずにいられなかった本がある。

 後付けに記されたところでは、私の誕生を待たずして既に亡くなっていた曾祖父の仏前に大叔父が供えたものであるらしい。

 陽に焼けようが、虫に食われようが、およそ半世紀の時を隔てて、たまさか出来上がった囲碁好きの末裔と先祖が「脳内世界」でつながる。

 本当に「テキストは作品じゃなくてデータ」なのか。

 少なくとも、大して開かれることすらない私のkindleを貯め込んだPCは、まさかこんな時間を斡旋してくれやしない。

 

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