ねじまき鳥クロニクル

 

 ぼくはいまだにそのことを知らないでいるしこの先も知ることは決してないけれども、きみはバンコクの日々、ルンビニー公園にもほど近い、サートーン通りを折れたところの道路に面したアパートメントタイプのホテルの部屋を日本から手配してあった、そこで過ごした。きみはまんまとぼくから逃げてぼくに知られることなく、そこはダイニングキッチンと寝室の二部屋からなる、ぼくたちが暮らしているこの部屋よりもほんの少し広いくらいだった、きみ一人で暮らすには申し分ない大きさだった、そこで無為をむさぼることを満喫していた。……

 きみがバンコクに向かったその日の朝、それはもしかしたら単にぼくがひどく鈍感だったというだけのことなのかもしれない、けれどもきみにいつもと変わった様子はなかった。朝食の時のきみは何も食べていなかった、コーヒーだけすすりながらぼくが食べているのに付き合っていた、そしてブロッコリー・レボリューションというボードゲームが最近ちょっと評判になっているらしいという話をしていた、けれどもぼくはボードゲームというものにこれっぽっちも興味がなかった、……ぼくはいまだにそのことを知らないでいるしこの先も知ることは決してないけれども、ブロッコリー・レボリューションなんてボードゲームは存在していなかった、きみはぼくのことを、ぼくにそれと悟られないようにこっそりからかっていたのだろう、ブロッコリー・レボリューションというのはスクムヴィット通りに面したバンコクのカフェの名前だった。

 

 この表題作「ブロッコリー・レボリューション」がフィクションという体で書かれているということをひとまず括弧に入れてみる、例えばこれをブログなりSNSなりに綴られた「ぼく」の独白として読んでみる。

 冒頭間もなく明かされるのは、「ぼく」が「きみ」に対して働いた「きみにとっては暴力的と感じられていたのかもしれない振る舞い方」、「たまり込んだ負の感情」を「きみの両肩を掴み、部屋の壁や床に押し付けて身動きを取れなくしてから言葉の体をなしていないそれ以前の嗚咽の声の限りを上げて、怯えとぼくに対する蔑みとが入り交じった表情を浮かべたきみの顔に向かって浴びせかけ」る、というその行為。少なくとも「ぼく」の解釈する限り、そうした日々に倦み果てた「きみ」が置き手紙のひとつもなくバンコクへと逃げ出した、ということらしい。

「ぼくはいまだにそのことを知らないでいるしこの先も知ることは決してないけれども」という留保を幾度となく積み重ねながら、「ぼく」は「きみ」のタイでの暮らしぶりを描き出す。単にひとりきりのはずの室内での様子すらもカメラで捉えるように精細に追跡するだけではない、しばしば「きみ」の内面すらも代弁してやまない、あのときは、という回想を後日「きみ」から聞き取ったわけでもないはずなのに、というのも、なにせ「ぼくはいまだにそのことを知らないでいるしこの先も知ることは決してない」のだから。

 これを仮にダイアリーとして捉えるならば、読者は必ずやそこにDVモラハラ夫による妻への支配欲の典型を見て取ることだろう、「きみ」の何もかもが「ぼく」にはお見通しなのだ、と、そしてその文体こそが執着の無二の自供となっていることに戦慄を覚えるに違いない。

 

 ところが、この括弧を再び外してあくまでフィクションなのだという前提に立ち返るとき、「きみ」をめぐる描写の窃視性は驚くほどの鈍化を見せる。行きつけとなったホテル近くの店でカオマンガイを食する「きみ」や、暖かくも乾燥した空気に身をさらしながらベランダでまどろむ「きみ」をそういうものか、と読み進めることができてしまう、「ぼくはいまだにそのことを知らないでいるしこの先も知ることは決してないけれども」との注釈さえもさしたるノイズとはならない。

 なぜならば、「ぼく」という書き手による「きみ」――それがいかなる人称を取ろうとも――のデッサンを小説というものにおけるごく普通の作法としてすっかり受け入れているから。「ぼく」がいったいいかなる仕方で「きみ」を眼差すことができているのか、ということにはほとんどの場合において注意が払われることはない。それは他の媒体表現でもあまり変わるところはない、映画においてカメラという営みがどうして可能なのかをいちいち問うことをしないし、演劇において観客席がなぜに成り立つのかをさして不思議だとも思わない。

 物語に沈み込むということはすなわち、「ぼく」になること、「きみ」の全能の神として支配すること、「ぼく」の情念をことばに変えて「きみ」へとぶつけること。

 

ブロッコリー・レボリューション」の舞台となるのは、2018年の初夏。

 当時のタイは、少年サッカーチームが洞窟内に閉じ込められた、というニュースで持ち切り、同じ競技のつながりでいえば、ロシアではワールドカップが開催されていた。

 そして線状降水帯が猛威をふるったその金曜日、日本ではオウム真理教幹部7名への死刑が下された。あたかも選挙特番の当確アナウンスのように、各地から飛び込む執行の報を伝えるあのテレビ・プロパガンダを「ぼく」もまた見ていた、「きみ」が失踪してさえいなければ、「ぼくはきっとそのニュースにものすごく動揺させられていたんじゃないか」。「なんだか冷静に思った」とは言いつつも、「ぼく」は曰く「嘘の狂気」にまみれた麻原彰晃に「異様なグロテスク」を見ずにはいられない。もっともその嫌悪はテロリズムへの憤怒には由来しない、「世の中が事件の真相を知りたい、麻原から何かほんとうの言葉を聞きたいという期待を抱いていることに対して応えてやるものかという意志」をこの空虚な中心に読み解く「ぼく」は必ずや投影していることだろう、「ぼく」のLINEに一貫してスルーを決め込む「きみ」を、そうすることで「ぼく」の「期待を抱いていることに対して応えてやるものかという意志」を表明する「きみ」を。

 

 そんな中、いささか奇妙なセンテンスに出会う。

 どうやら「きみ」が家を出たらしいことを把握して間もなく「ぼく」は書棚にできた空白に気づく、いわゆる鈍器本を「きみ」がピックしていったようだ、そして独白せずにはいられない、「どうして小説を読む習慣なんてないはずのきみが、しかもよりにもよってそんな分厚いのを選んで持って行ったのか、ぼくにはまったく不可解だった」。「ぼくはいまだにそのことを知らないでいるしこの先も知ることは決してないけれども」とくどくどしく断りつつも、延々と「きみ」の内面の憶測を既成事実化し続ける「ぼく」がことこの局面についてのみ、紛れもないその不可知をためらいなく告白する。

 

「ぼくはいまだにそのことを知らないでいるしこの先も知ることは決してないけれども」を表明し続けるこの小説は、いかにも大いなる謎を残して閉じる。

「きみがバンコクに行ったのだというぼくの妄想」が現にこの世界線においては「妄想」でしかなかったとした上で、そもそもどの程度のフェーズにおいて「きみ」はいないのか、と。

 はじめから「ぼく」というストーカーがでっち上げた同棲願望の表象としての「きみ」しかいなかったとしてもさしたる驚きはない。「きみ」はもとより恋愛シミュレーション・ゲーム上の存在でしかなくて、データ破損とその虚脱感を「ぼく」が訴え続けていたとしてもやはりさしたる驚きはない。DVを繰り返した末に姿を消した、言い換えればこの一連の「妄想」にもその程度の真実は籠められていたとしてもやはり驚くにはあたらない。

 もちろん一読者は「いまだにそのことを知らないでいるしこの先も知ることは決してないけれども」、そもそもが「きみ」なんてどこにもいない、この創作物に「ぼく」をめぐるとりあえずのファクトがあるとするならば、「公園には誰も来なかった」ことだけなのかもしれない、「きみ」だけではなく「誰も」、これまでも、そしてこれからも。

 

shutendaru.hatenablog.com

 

shutendaru.hatenablog.com