明日に向って撃て!

 

 なぜぼくは「アメリカ」を書くのか、と時どき自問する。簡単に言えば、この国が好きであり、面白くてたまらないからだ。面白いというのは、アメリカという国が、世界のどこの国とも異なった成り立ちを持ち、作られ方をしてきたからだ。それは世界史の中では稀有なことで、奇跡と言ってもいい。あらゆる幸運が、この若い国に起こったとしか思えない。

 それがどうやって起こったのか、なぜ起こったのか、そのことは長くアメリカを旅してきて、少しずつ分かってきたように思う。それはやがて、そのままアメリカの真の姿、真のありよう、その国に住む人びとの真の姿を理解する、大きな手がかりとなるに違いないと確信をするようになった。そして、そのことを書きたいと思い続けてきた。

 

 旅をしているようで旅をしていない。

 本書のもととなるのは、1998年から2005年にかけての雑誌連載。その当時、筆者は1年のうちの70日ほどを費やして、アメリカの街から街を車で訪ねて回っていたという。あるいは本書では、時にアメリカを経由して、人物ゆかりの日本の地へと出向いたりもする。

 そこで暮らす彼らにとってはごく「ありふれた町」、しかしアウトサイダーの目にはしばしば特異なありようをしている、そんな光景をしかし本書は頑ななまでに切り抜こうとはしない。

 筆者の眼差しは一貫して失われし日々への郷愁へと向かう。現在の「ありふれた町」などどこまで行っても「ありふれた町」、「すでに『近代』というものに汚染された、汚濁」の集積物でしかない。所詮、その町並みはノスタルジーへと没入するための媒介でしかない、そして実のところはその機能すら果たさない。

150年前、やがてはビリー・ザ・キッドと呼ばれて西部の人びとを恐れさせ、世界の多くが知ることになる稀代の悪漢が、少年時代に走り廻り遊び呆けた街という面影はどこにもなかった。どこかに彼の痕跡がないかとしばらくの間うろついてみたが、彼ら一家の実在を確認できるものは何一つなかった」。

 誰しもが必ずや呆れ果てずにはいられない。そうして筆者は過去の記録をひたすらに綴る、「ありふれた町」のどこにも見出すことのできない「真の姿」が、その中にならば横たわっているという。

 

 今の映画は頭では面白がれるけれど、心の奥までは届いてこない。最近の映画はすぐに筋を忘れてしまうのに、あの時代のそれはいつまでも心に残っている。そして不思議なのは、あの時代、音楽や映画を通して世界中の若者が、ある感性や情念や気分といったものを分かち合っていたように思えることだ。アメリカを舞台にした物語なのに、世界中さまざまな環境の中にいる若者の誰もが、共感できたのである。アメリカ文化の凄さは、そのあたりにある。……

 あの時代、むさぼるように映画を見た。『俺たちに明日はない』が日本で公開された1968年には、『卒業』があり、『ブリット』があり、『2001年宇宙の旅』と『猿の惑星』があった。翌年には『ワイルドバンチ』があり、『真夜中のカーボーイ』があり、『ローズマリーの赤ちゃん』もあった。70年が決定的だったな、と今にして思う。『イージー・ライダー』があって、何よりも『明日に向って撃て!』があった。

 幾度となく手を変え品を変え吐露される筆者の時代観、世界観は概ねこの2ページほどに凝縮されている。

 筆者にとっての少し遅れたグッド・オールド・デイズがそこにはあって、その原型をさらに求めれば、ビリー・ザ・キッドなる「外法者out law」にたどり着く。

「ビリーは、金銭目当てではなく、ただ、自由を生きるために銃を使った。そして気がつくと、法の外側に歩み出していた。

『無法者の烙印』を押される、という言葉はそのことをよくあらわしている。彼は無法者になりたかったのでも、無法者の団体に加入したのでもない。法の内側で法に守られ、その権力機構に組みこまれて生きることを選んだ人びとによって、『無法者』と指定されたのだ。その人びとは正義というよくわからないものを盾に、自分たちが住みよくするために作った『法』を押しつけ、自由に生きようとする者に枠をはめる。そこからはずれた者、そこにおさまりきれない者に、『無法者』という烙印を押す。……外法者にとって、『法』はほとんど意味がない。『法』の外にいる人間には、『法』はまったく意味をなさないのだ。ビリーという男を見て、つくづくそう思う」。

 

 奇しくも筆者にとっての「あの時代」の終わり、日本においても、全く同じようなことを説いて、そして自害を選んだ「外法者」――とも思わないけれど――がいた。19701125日の市ヶ谷で、そう、三島由紀夫である。

「近代」や「法」への果てなき憎悪に駆られる三島にとってのビリー・ザ・キッドとは、すなわち天皇だった。もっとも、ヒロヒトや、ましてや軽蔑を何ら隠そうともしなかった時の皇太子がそんなものを体現する存在でないことくらい、いかに愚かな彼にだって分かっていた。過去のいずこを辿れども、「檄」が希求する「真の武士の魂」に正当性を認める天皇の「真の姿」など、現れてくるはずもない、なぜならそんなものはないから。

 仮にもし150年前にその町を訪れていたならば、必ずや筆者の追い求めてやまないビリー・ザ・キッドの痕跡は見出されていたことだろう、はずはない。アレン・ストリートは150年前にだって「ありふれた町」だった。

 世界のいずこをさまよおうとも、旅とはすべて足で踏みしめるその大地が「ありふれた町」でしかないことを知らされるためにある。たとえモダニズムを知らずとも、有限個のスクリプト組み合わせという「法」の「外」など持ちえないすべて人間には、「ありふれた町」ならざる「町」を構成する能力などそもそも与えられてなどいない。

 その現実を見たくなければ、永遠のアームチェア・トラベラーを決め込むしかない、もしかしたらテキストやフィクションの中ならばその「自由」がある。

 

 

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