PLUTO

 

 私がロバート・オッペンハイマーに関心を持ってから20年はたつ。オッペンハイマーの名は科学者の社会的責任が問われる時にはほとんど必ず引き合いに出される。必ずネガティヴな意味で、つまり悪しき科学者のシンボルとして登場する。……

 この、大天才でも大サタンでもないただ一人の孤独な男を、現代のプロメテウス、ファウストメフィストフランケンシュタイン博士、はたまた狡猾な傭兵隊長ハッカー・ネドリーのアイドルに仕立て上げ、貶める必要はどこから生じるのか。そうすることで、誰が満足を覚え、利益を得るのか?

 私が見定めた答えは簡単である。私たちは、オッペンハイマーに、私たちが犯した、そして犯しつづけている犯罪をそっくり押しつけることで、アリバイを、無罪証明を手に入れようとするのである。……オッペンハイマーは腕のたしかな産婆の役を果たした人物に過ぎない。原爆を生んだ母体は私たちである。人間である。

 

 マックス・ボルン、ヴェルナー・ハイゼンベルク、ヴォルフガンク・パウリ――

 綺羅星のごとき物理学のレジェンドが集える1920年代のゲッティンゲン、才気煥発な「若い連中は、ほとんど毎日のように新しい発見をしていた」。その末席にロバート・オッペンハイマーもまた座していた。彼は後に振り返って言う。

ケンブリッジで、ましてやハーヴァードでは味わうことのなかった意味合いで、私は、興味や嗜好の似かよった、そして物理についてはたくさんのことに同じ関心を持った人たちでできた小さな集団に属していた」。

 鶏が先か、卵が先か、否、巣箱が先だ。孵化できる環境があってはじめて卵は卵であることができる、そうして鶏は生を享けることができる。才能なる抽象概念は、この黎明期のきらめきを何ら説明しない。天才は一日にしてならず、一人にしてならず。ヴェルサイユ条約の戦後処理により停滞を余儀なくされているはずのあのドイツにおいてすら、「国際的に開かれた科学者の共同体――クエーカー教徒の集会に似て、相互の合意以上の権威は存在しない、本質的なアナーキスティックな科学者共同体」が、彼らを不朽の発見へと導いた。

 果たして時は流れ、とあるミッションを請け負ったオッペンハイマーニューメキシコの山中に求めたのも、自由闊達な議論を可能にする「科学者共同体」だった。筆者の言うことには、この地では、「彼自身のものと同定できる独自な技術的貢献は何も行わなかった」。代わって彼が所長として担った労務といえば、適切な人材をかき集めて配置し、ゲッティンゲンの記憶そのままの「科学者共同体」を再現することだった。

 ある研究者の述懐。「オッピー[オッペンハイマーの愛称]は、化学者、物理学者、技術者だけでなく、画家、哲学者といった場違いの連中も集めてきた。そうした人間たちなしでは文化的なコミュニティーは完全でないと彼は考えたのだ。……夕方、あてもなく外に出て、目にとまった最初のドアをノックすれば、中では、音楽を奏でたり、興味しんしんの会話を交わしている面白い人たちが間違いなくいるのだと思うと、私はうれしくなってしまうのだった。これほど知性の高い洗練された人が多彩に揃っている小さな町を見るのは生まれて初めてのことだった」。

 ところがその楽園は、「公式には所番地もなく、地図の上にも存在しない秘密研究所」でもあった。今日となってはもったいぶるまでもない、約束のその場所、ロス・アラモスに託された最高の軍事機密とはすなわち原爆だった。

 

 読者はここで少なからぬ困惑に駆られずにはいない。

 戦争、とりわけ第二次世界大戦と科学の関わりを論じるに、あるいはオッペンハイマー以上にしばしば持ち出される名前がある。アドルフ・アイヒマンという。

 かの絶滅収容所を取りしきり、毒ガスによるユダヤ人大量虐殺を主導したこの男に、しかしかのハンナ・アレントが見たのは、驚くべきまでの「悪の凡庸さ」だった。官僚機構の一員として上意下達で与えられたミッションを忠実に遂行したに過ぎないこの男は、罪悪感を問われても、その意をついぞ解することができなかった。

『モダン・タイムス』そのままに、一切をオートメーションのごとくに振る舞うことをもってはじめて成立する「悪の凡庸さ」とはおよそ対照的な環境が、ロス・アラモスの「科学者共同体」には確かに樹立されていた。しかし嘆かわしくも、より大いなる殺傷能力を獲得してしまったのは、後者の方だった。次から次へと立ち現れる技術的、理論的な課題の数々を日々自ら発見しては克服していく。もちろん軍部からの突き上げと無縁であれたはずはない、しかしオッペンハイマーは楯として「科学者共同体」を守り抜き、果たして原爆は完成の時を見た。ナチスや日本にはなくて、ただしアメリカにあったものは、単に投入可能な研究リソースだけではない、「科学者共同体」によってのみなし得る開かれた討議の場だった、権威主義者にはまさか築けるはずもない。

 

 いっそ「悪の凡庸さ」が人間における残虐性の唯一無二の説明関数を担ってくれれば、これほど簡単な話もない。孤独に震えるマッド・サイエンティストによって引き起こされるクライシスというのも、いかにも分かりやすい。

 しかし、「科学者共同体」はそれらの像とは似ても似つかない。にもかかわらず、無垢とすら映るそんな彼らが、どんなファシストによってもなし得ない殺傷能力をこの世に誕生させてしまう。成果主義や強迫的な負のインセンティヴでは決してもたらされようもない惨禍を、彼らの自発性や好奇心は呼び起こすことができてしまう。

 今日に至るまでの歴史の教訓として、全体主義が実のところ恐るに足りぬと軽視するには相応の理由がある。端的に、彼らは無能だから。恐怖支配に基づく選択と集中が偉大なる進歩をもたらし得るとするならば、世界の科学は北朝鮮やらアフリカのどこぞの独裁国家によって牽引されていることだろうし、さらに遡れば、封建制度や寡頭支配は空気のごとき恒常状態としてそんな呼称を与えられることすらなかっただろう。しかし彼らはもちろんGAFAMシリコンバレーを持たなかったし、これより先も持つことはない。彼らには縮小再生産の他に何ができることもない。

 もっともそこにさらなる歴史のどんでん返しがある。現在進行形で目撃する、自由主義陣営が展開したITプラットフォームのとりあえずの到達点は――『1984』や『動物農場』も裸足で逃げ出すディストピアだった。

 だからこそ、めまいに誘われる。

 

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