フレンチドレッシング

 

 巻子はわたしの姉であり緑子は巻子の娘であるから、緑子はわたしの姪であって、叔母であるわたしは未婚であり、そして緑子の父親である男と巻子は今から十年も前に別れているために、緑子は物心ついてから自分の父親と同居したこともなければ巻子が会わせたという話も聞かぬから、父親の何らいっさいを知らんまま、まあそれがどうということもないけれども、そういうわけでわれわれは今現在おなじ苗字を名のっていて、ふだんは大阪に住むこの母子は、この夏の三日間を巻子の所望で東京のわたしのアパートで過ごすことになったわけであります。

 

「わたし」が移り住んでからの年中行事ということでもない巻子の上京にはとある目的があった。

「あたし豊胸手術を受けたいねんけども」

 事前に電話でそう聞かされてはいた。しかし、「わたし」は久々に会う姉の姿にしばし絶句する。理由は「巻子の諸々、その全体としての縮み具合であった」。

 みすぼらしく萎れた母に比して、娘の緑子の肉体は成長期前夜に特有の細くしなやかな直線をあらわす、わけても脚の長さはひときわ目を引く。

 そんな親子はかれこれ半年ほど口を利いていないという。より正確には、娘のレスポンスはすべて筆談で行われる。叔母の「わたし」の問いかけに対してもいちいちペンを経由する。

 緑子がすっかり声を発さなくなったのにはとあるきっかけがあった。スナック勤めで糊口をしのぐ母子家庭のささいな口論の最中、彼女はつい言ってしまう。「あたしを生んだ自分の責任やろ」。

 とっさの激情を深く悔いる彼女は、そうして自らに声を禁じ、日々綴る秘密のノートに書きつける。「そのあと、あたしが気がついたことがあって、お母さんが生まれてきたんはお母さんの責任じゃないってことで、あたしはぜったいに大人になっても子どもなんか生まへんと心に決めてある」。

 

 豊胸手術について滔々とまくしたてる巻子を前にして虚空に視線をさまよわせる「わたし」はふとどこかで聞いたことのある会話を思い出す。

 一方の女子が言うことには、「胸は自分の胸なんだし、男は関係なしに胸ってこの自分の体についてるわけでこれは自分自身の問題なのよね」。片やその相手が言うことには「その胸が大きくなればいいなあっていうあなたの素朴な価値観がそもそも世界にはびこるそれはもうわたしたちが者を考えるための前提であるといってもいいくらいの男性的な精神を経由した産物でしかないのよね」。

 乳房と卵子(生理)によって象徴されるだろう女性性はあくまで「自分自身」に依拠したものなのか、それとも女性性とはあくまで男性性の影としての第二の性でしかないのか。

 

 こういった調子で何もかもがあからさまにメッセージ化されていく、寓意性も物語も何もあったものではないこの小説の中で、転機は不意に訪れる。

 出かけたきり電話にも応じない巻子が夜遅くにようやく戻る。かなり飲んできたらしい。

 台所の明かりの下で緑子は洗い物をするでもないのにシンクの水を出しっ放しにしている。たぶん単に水による洗礼、生まれ直し、リセットを象徴させている、という以外にこの行動を意味づける術を少なくとも私は知らない。

 すると立ち上がった「わたし」はなんとはなしに冷蔵庫を開けて「目についたドレッシングの瓶を取りだして中身を流しのなかに捨ててみた」。さしたる理由が提示されることはないこの行動ではあるが、そこに示唆されるメタファーはあまりに露骨である。棒状のボトルからぶちまけられる「その真っ白のどろりとした液体」という描写に精液以外の何かを連想する方がむしろこじつけとしか見なしようがなく、いずれにせよ、めでたく男性性は下水道へと葬られた。

 そのセレモニーの終焉を待っていたかのように、巻子は娘の傍らに詰め寄ると、酔いに任せてか日頃のつれない態度を責めはじめる。腕を掴まれた緑子が振り払うと、たまたまその指先が巻子の瞳に命中する。心配と動揺で緑子は思わず声を発する。「お母さん……お母さんは、ほんまのことゆうてよ」。

 そして次の瞬間、「流しの横に廃棄のために置いてあった玉子のパックをすばやくこじ開けて、玉子を右手に握ってそれを振り上げた。あ、ぶつける、と思った瞬間に、緑子の目からはぶわっと涙が飛び出し、ほんとにぶわりと噴き出して、それを自分の頭に叩きつけた」。つまりは卵子、女性性の象徴をまとわせた緑子はなおも訴える。「胸をおっきくして、お母さんは、何がいいの、痛い思いして、そんなおもいして、いいことないやんか、ほんまは、なにがしたいの、と云って、それは、あたしを生んで胸がなくなってしもうたなら、しゃあないでしょう」。

 注油にもどこか似る、この生理を仮託した通過儀礼を済ませた彼女はさらに自らに向けて語りはじめる。「厭、厭、おおきなるんは厭なことや、でも、おおきならな、あかんのや、くるしい、くるしい、こんなんは、生まれてこなんだら、よかったんちょしやうんか、みんな生まれてこやんかったら何もないねから、何もないねんから」。

 そうして数ヵ月ぶりに娘の本心を聞いた巻子もまた、玉子を手に取り自らにふりかける。彼女もまた萎みゆく乳房に示唆される女性性の衰退をこの行為をもって補完する。父を持たない、夫を持たない、母と子による女性性の円環構造を互いに確かめた上で、緑子にささやきかける。「ほんまのことって、ほんまのことってね、みんなほんまのことってあると思うでしょ、絶対にものごとには、ほんまのことがあるのやって、みんなそう思うでしょ、でも緑子な、ほんまのことなんてな、ないこともあるねんで、何もないこともあるねんで」。

 この直前、緑子は「わたし」から借りた電子辞書を引く。「ジンクス」から「因縁」へ、今ひとつ分からないとさらに芋づる式にあたっていく彼女はふと気づいたことをメモして叔母に見せる。

「もしかして、言葉って、じしょでこうやって調べてったら、じしょん中をえんえんにぐるぐるするんちゃうの」。

 奇祭を終えて彼女たちはやがて知る、「ほんまのこと」もまた、あるやなしやも分からぬままに、「えんえんにぐるぐるするんちゃうの」と。

 少なくとも本書における女性性は、社会構築主義的に男性性から導かれるわけでもなければ、本質主義的に身体性に由来することもない、その答えなど「ないこともあんねんで」と知りながら、血を分けたシスターフッドの輪の中でたまのカーニバルとともにその外延を持つこともなく「えんえんにぐるぐる」し続ける。

 

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