私と山村美紗とでは、本の売り上げ、知名度、華やかさ、何もかも違いすぎる。けれど、美紗について調べて、何よりも印象に残ったのは、彼女の「自身のなさ」だった。あんな有名な作家が、自分と同じ苦しみを抱えていたのかと思うと、胸が痛んだ。
実のところ、それは多くの作家が抱いているものであるのかもしれない。
そして、また知れば知るほどに、彼女の「女」としての魅力も気になった。複数の男たちの心を捕らえ、亡くなったあとも執着させる山村美紗とは、どんな女性だったのか。
山村美紗を書きたい――改めて、強くそう思った。
現代のノンフィクション市場の水準に照らせば、本書はいかにもつらい。
今日ならばまだ存命の関係者も多く残っていようはずなのに、そのあたりへの取材が広く行われた形跡もない、少なくともテキストには反映されてはいない。
微に入り細に入り彼女の作品を読み込んで快刀乱麻のアナライズを披露する、そんな場面に出会えることもない、というかはじめから、そんなリソースが投与された形跡もない。
はっきり言えば、情報量にひどく乏しく、生煮えとの感は否めない。
しかし、だからこそ、時に埋められてしまう空隙がある。
山村の履歴だけでテキストを覆い尽くすことができないのならば、そのブランクは自身を投影、同化させることで満たしてしまえばいい。表現主義の系譜に限りなく似て、図らずもかけられたその補正が、本書に謎の生命力を与えずにはいない。
文中、繰り返されるエピソードがある。京城で過ごした小学生時代にエントリーした作文が、2000点以上の候補の中から見事選ばれ、作品集に収められたことがあったという。まだ何者でもなかった山村美紗を辛うじて支えたのが、この些細な成功体験だった。
本当のところ、山村がそう思っていたのかは分からない、しかし、このくだりには奇妙なまでの説得力がある。たぶん、と私は推察する、花房を支えるのもまた、同種の成功体験だったのではなかろうか、と。
感情は時にファクトを凌駕する、してしまう。
「何もかも本当のことをさらけ出す必要なんて、ないのだ。
作家は噓を吐くのも仕事なのだから。
人々が失望する事実よりも、喜ぶ嘘を描くのが、作家だ」。
自身のプライヴェートをミステリーに仕立てた山村を評するに、この文章が適切かどうかなど知る由もない。しかし、ここには紛れもなく、花房観音の叫びがある。
「山村美紗サスペンスのヒロインは、山村美紗自身だった――」ように、本書の事実上のヒロインもまた、花房観音という筆者自身だった。