Love Lockdown

 

 もはやすべて過去だ。しかし、多くの人間は過去を置き去りにできない。しかも、ある重要な点で、これは現在の物語でもある。わたしたちはこの時代の長い影の中でいまだに生きているのだから。

 壮麗なホテルのダイニングルームに一歩入れば、戦争を賛美することも陰謀を巡らすことも一時的に中断された――少なくとも表向きは。占領時代のドイツ軍将校たちは軍服を脱ぎ、しばしばフランス語で会話した。彼らといっしょに食事をするパリジャンたちは、社交の場では慎重に中立の姿勢を貫いた。ランチをとりながらの「円卓会議」では、デザイナー、会社経営者、外交官、政治家のあいだで、協力することには経済的意義があるという結論が出された。ホテル・リッツでのそうした会話は今日のEUの土台となっているのだ。……

 第二次世界大戦の歴史があまりにも簡略化されて、白か黒かで、つまり善の軍隊と悪の軍隊のあいだの壮絶な戦いとして語られることが多いのも事実である。抵抗をした人々もいたし、対独協力者がいたこともわかっている。そしてもちろん、きっちりとひとつのカテゴリーにおさまらない行動をとった人たちも、たしかに存在した。しかし、占領下でパリに住んでいたほとんどの人間にとって、生き延びられるかどうかは、戦争の現実を適切なニュアンスに変えられるかどうかにかかっていた。ホテル・リッツでは、白と黒が交じり合って濃い灰色になり、その空間では驚くべき出来事が起きていた。そうした灰色のエリア――勇気や欲望が残虐行為や恐怖とぶつかり合う場所では、すばらしい人間の物語が存在した。本書は彼らの生と死と危険な出会いの驚嘆すべき歴史を描いている。そして、すべては常に魅惑的なパリのヴァンドーム広場で起きたことなのだ。

 

 巻頭に「主要登場人物」なる資料が付される。

 ヘルマン・ゲーリングウィンストン・チャーチルロバート・キャパマルセル・プルーストアーネスト・ヘミングウェイウィンザー公爵、マレーネ・ディートリッヒ、ココ・シャネル――

 それは果たして戦史か、文化史か、外交史か。これら散り散りの点を線とする20世紀ヨーロッパ史を編まんとすれば、通常、いったいどれほどの文字数を要することだろう。

 しかし本書はその作業をいともたやすく成し遂げる。というのも、彼らにはある共通項が横たわっているのだから。

 つまり、ホテル・リッツを愛したという。この舞台にさらにユダヤ人という問題軸を加えれば――

 

 開業のその瞬間から既に、ヴァンドームは分断の影に包囲されていた。

 前時代的な形式主義に別れを告げて、機能美に満ちた「現代的な贅沢」を提供する、そうして1898年、ホテル・リッツはパリの超一等地に産声をあげた。「たしかに家具は古典的で高価なルイ14世やルイ15世様式だった。しかし、すべての部屋は現代的にデザインされていた。セザール・リッツ[創業者]は結核コレラが宿泊客のあいだに広まることを極度に恐れていて、衛生に万全の注意を払ったからだ。厚手のカーペットやカーテンはほこりと細菌を集めるという理由で避けられ、寝室は作りつけのクローゼットや専用の水道設備のあるバスルームなど、最新式の改装をほどこされた。スイス人らしく精確さに情熱を注いだので、各部屋の壁にかけられたブロンズの時計は正確に時を刻んだ」。

 時を同じくして、パリの街はドレフュス事件で持ち切りだった、ユダヤ人将校がユダヤ人であるというだけで裁判にかけられ、ついには有罪を言い渡されたあの事件で。

 ホテル・リッツのその機能美が、エミール・ゾラを嚆矢とする先進的ないわゆる「知識人」を惹きつけてやまないのもいわば当然だった、そして同時に、古き良き貴族的幻影の再来を願ってやまない層からの反発を誘うことも。もちろん、前者は軒並み悲劇のアルフレッドを擁護し、後者は糾弾を断固として支持しただろう。

 リッツのオープニング・パーティーの催された「その夏の夜、マルセルはひとつの時代がゆっくりと始まるのを目の当たりにした――すでにベルエポックはすたれかけていた」。このホテルがなければ、彼が失われた時を求めることもあるいはなかったのかもしれない。

 

 アヴァンギャルドをスタンダードに変えるのに、40年という時は十二分に過ぎるものだった。

「映画スターや有名作家、アメリカの女性相続人、色っぽい愛人、プレイボーイ、王子たち」がそうしたように、やがてパリの街を占拠するナチスもまた、名門が提供するホスピタリティに恋焦がれずにはいられなかった。1940614日、パリを落としたドイツ軍将校たちがまず何をしたか――リッツのダイニングで勝利の味に酔いしれた。「ドイツの白ワインで蒸した舌平目、ローストチキン(おそらくフランス産)、オランデーズソースをかけたアスパラガス、お好みのフルーツ……まさにドイツ人がフランス料理を選んだことを象徴する出来事だった」。

 中立国のスイス人によって営まれるホテルは、そのスイートを元帥に明け渡してなお、「パリにおけるスイス、中立地帯となった」。あのヨーゼフ・ゲッペルスですらも、「もっとも重要で例外的な地位を」認めずにはいられなかった。かくして世にも奇妙なセパレーションがここに成立する。「ホテル・リッツの半分はナチスの欲望を満足させるための排他的な隠れ家になったが、カンボン通り側とバーとレストランは一般人にも開放していた。フランスと中立国の市民たち、それにホテルに住むことを許された芸術家、作家、映画スター、脚本家、興行主、デザイナーといったエリートたちのグループに」。

 

 形勢はノルマンディーをもって逆転、やがてナチスはパリの街を追われる。

 19448月、解放の歓喜のこだまに包まれながらその従軍記者が朽ち果てた花の都でまず何をしたか――リッツに部屋を取った。ベストセラーの売り上げを片っ端からバーに注ぎ込み蕩尽した、そんな甘い日々の記憶を彼は一時として忘れることがなかった。「おれはアメリカ人だ。古きよき時代のようにここで暮らすつもりでいる」。あろうことか、彼は先着していたイギリス兵を追い払いさえした、それもドイツ語で。田舎者を絵に描いたような傍若無人なこの男、果たして「武器よさらば」と言ったとか、言わないとか。

 のち、そのバーには、彼の名前が冠された。