勝手にシンドバッド

 

 本書の主役は、誰からもほとんど顧みられないのに、誰もそれなしでは生きられないものである。それは世界で最も重要な個体であり、現代文明の、文字どおり土台をなす物質なのだ。

 その物質とは、砂である。……

 今日のあなたの生活は砂に依存している。意識していないかもしれないが、そこらじゅうにある砂のおかげで、あなたの生活スタイルが成り立っている。それも、ほとんどあらゆる瞬間においてである。私たちは砂のなかで暮らし、砂の上を移動し、砂を使って連絡をとりあい、自ら砂のなかに身を置いているのだ。……

 どうしてこのような状態になったのか。なぜ人間はこの単純な素材にここまで依存するようになったのか。これほど大量の砂がいったい何に使われているのか。そして、この砂への依存は、地球にとって、そして人間の未来にとって、どのような意味をもっているのだろうか?

 

砂上(さじょう)の楼閣(ろうかく)の解説

見かけはりっぱであるが、基礎がしっかりしていないために長く維持できない物事のたとえ。また、実現不可能なことのたとえ。

デジタル大辞泉小学館

 本書を読んだ者は、もはやこの慣用句をかくのごとき意味において用いることはできない。

 何せ現代の都市や住宅地を見渡せば、そこにあるのは見渡す限りの砂と砂と、そして砂、「セメントと水を混ぜたものに、『骨材』、つまり砂と砂利を加えてつくられ」たその素材、すなわちコンクリートによって埋め尽くされているのだから。

 コンクリートがかくも普及するようになったのは、何をおいてもその強靭さゆえに他ならない。そもそも「コンクリートは圧縮強度がとても大きく、強い圧力をかけても壊れることなく耐え続け」、ただし、「引張強度は小さくて、強い力で引っ張られるとひびなどの欠陥から簡単に割れたり砕けたりもする」、この砂の塊はやがて互いの短所を補完する最高の相棒を見つける。鉄筋という。

 そしてこの新技術は、間もなく決定的なターニング・ポイントを迎える。1906年のサンフランシスコを襲った巨大地震とその後の大火災、「ようやく火が鎮まると、ミッション通りと13番通りの交差点に、奇妙な光景が現れた。焼け焦げた角材や瓦礫のまんなかに、建物が1棟だけ残っていたのだ。……その建物が残った理由は、当時物議を醸していた鉄筋コンクリートという新素材でつくられていたためである」。この一件は、レンガという旧型の技術の崇拝者を沈黙させるには十二分なものだった。

 今日の道路を覆うだろうアスファルトにしても、「基本的には、砂利や砂がくっついているだけのものだ」し、鉄筋コンクリート建造物の外観にアクセントを加えるガラスにしても「その大部分が単なる溶けた砂である」。そして現代のIT社会の基礎をなす半導体さえも、元をたどれば「高純度のケイ砂」である(もっとも、その原料をシリコン純度99.999999999パーセントにまで磨き上げる必要はあるのだけれども)。

 さらには近未来のエネルギーすらもこの砂によって支えられる。シェール・ガスにシェール・オイル、これら資源が岩盤の向こう側に眠っていることは誰しもが知っていた、ただし取り出すことができなかった、そのブレイクスルーを与えたのが砂だった。「かくしてアメリカでのシェールガス生産量は、2000年に91億立方メートルだったのが、2016年には4470億立方メートルへと跳ね上がった」。太陽光パネルとてつまるところは砂の塊である。

 砂というインフラのこの強度をここまで実証されてなお、「砂上の楼閣」などと軽々に口走ろうなどと誰が思うだろうか。

 

はま‐の‐まさご【浜の真砂】の解説

浜辺の砂。数のきわめて多いことのたとえにいう。

デジタル大辞泉小学館

 この比喩を退けようなどとは、相当に無謀な試みに違いない。なにせ地殻に含まれる元素の質量比でいえば、ケイ素Si27.72パーセントと酸素に次ぐ。とある見積もりによれば、全世界の海岸にある砂粒はざっと750京、つまり7.5×1019乗、7500000000000000000、たぶん合ってる、仮に合ってなくても誰もチェックすらしない。こうしたデータを羅列されれば、いくらでも余っている、誰だってそう断言したくもなる。

 ところが、世界は既に砂不足で悩まされている。

 例えばフロリダ州フォートローダーデール、美しい海岸線で鳴らすこのリゾート地で「砂浜が消えつつあるのだ。/……物事が自然のままに進んでいれば、太平洋近海の南向きの海流によって海砂が運ばれてきて砂浜に継ぎ足されるはずである。かつては確かにそうだった。だが現在では、海砂の供給が断ち切られた」。その原因はマリーナや防波堤。浜に真砂がない、まるでジョークのようなこの事態を回避するために、郡では長年、近くの海底から浚渫した砂を人工的に補充することで、ようやくその体裁を保ってきた。彼らは大真面目にbring sand to the beachに取り組んだ。ところが、頼りのその砂すらも尽きつつある。「フロリダ州が特殊なのではない。アメリカ全土で、そして世界中で、砂浜はなくなりつつある」。

 アラビア半島で砂を売るなんて、エスキモーに氷を売るのと同様のハード・タスクと思うだろう。ところがそんな事態さえもことドバイにおいては決して珍奇な話ではない。というのも、「砂漠の砂は……埋め立て用途にも適していない。砂の粒が丸みを帯びすぎているため粒同士がしっかりくっつかないのだ」。だからペルシャ湾の砂をさらう。もちろんその反動で、生態系がダメージを負う。潮の流れが変わった結果、ビーチに砂が届かなくもなる、だからここでも彼らは砂を買う羽目に陥る。

 

「人類が使う原料の量……は、およそ100年で8倍に膨れ上がった。建設資材の量に至っては34倍である。……自然の力により山々が侵食されることで新たな砂は絶えずつくられているものの、それをはるかに超える量を私たちは使っているのだ」。

 だからといって、砂とともにあるこの堅牢な生活を手放すことなどできない。今さら木造建造物をデフォルトにすることもできなければ、アスファルトを剥ぎ取った泥道を行くこともできなければ、窓ガラスを障子に切り替えることもできない。砂を継ぎ足すことで辛うじて維持されるビーチを諦めることは、緩衝地帯、ライフライン機能の放棄を意味してしまう、それは単に観光資源の問題ではない。ましてや半導体を日々の生活から奪い取ってしまえば、砂を嚙むどころの騒ぎではない、現代においてはもはや生死に直結せずにはいない。考えられない、まさしくhide head in the sandしたくもなる。

 人新世とはすなわち、砂の文明をもって定義される。そこに持続可能性など望めない、遅かれ早かれ崩れ落ちる、あとはどう壊れるかの問題でしかない。

 砂上の楼閣なる語の比類なき正確さを改めて知らされる。