そして20年以上の月日が、わたしがOK 係になってから過ぎた――『ニューヨーカー』だけに存在する役職で、記事のゲラを読んで疑問点を書き込み、編集者、執筆者、事実確認係、副ゲラ読み係とともに、印刷にいたるまで管理するのが職務だ。ある編集者がわれわれを、文章の女神たちと呼んだことがある。カンマ・クイーンとも呼べるかもしれない。書くことをのぞけば、ほかの何かをやろうと本気で考えたことはない。
自分の仕事で好きなのは、人となりのすべてが求められるところである。文法、句読法、語法、外国語、文学の知識だけでなく、さまざまな経験、たとえば旅行、ガーデニング、船、歌、配管修理、カトリック信仰、中西部、モッツァレラ、電車のゲーム、ニュージャージーが生きてくる。文章の女神たちのヒエラルキーでは、わたしはうんと下のほうにいる。それでも、身につけてきた専門技能をわたしは伝えたい。
『ザ・ニューヨーカー』といえば、アメリカにおける文芸誌の草分けとして遍く知られる。ヘミングウェイもサリンジャーもカポーティも、この雑誌に短編を寄せた。村上春樹に早くから着目し、その先鞭をつけたことでも知られる。
そして本書の筆者、メアリ・ノリスが担うのは校正、典型的にはスペリング。
確かに今日では文書ソフトがミステイクをしばしば教えてくれはする、その恩恵に与っていることも決して隠そうとはしない。ではあるが、「ヤツは文脈を認識しないので、異形同音異義語、すなわち発音が同じでも綴りや意味が異なる語を区別できない」。「ヤツ」にかかれば、taleとtail、canonとcannonはみな同じ(名詞のryeと形容詞のwryを判別しないというのはさすがに誇張してんだろ、とは思う)。
この作業を進めるにあたって、女王には強い味方がいる。『ウェブスターズ・ディクショナリー』。その中にも厳然たる序列が横たわる。疑問点が生じた際にまずめくるのはMerriam-Webster's Collegiate Dictionaryの最新第11版、不足があればWebster International Dictionaryの第二版、1934年刊の通称『Web Ⅱ』に頼り、それでもダメならば諦めて1961年刊の『Web3』に手を延ばす。
より新しいものではなくあえて古いヴァージョンになぜ頼るのか。実はここには果てなき断絶が走る。『Web Ⅱ』の編集方針は「規範主義」、すなわち「どうすべきかを教える」、対して『Web3』のそれは「記述主義」、つまり「ひとびとがどう話しているかを、判断をはさまずに記述する」。「規範主義の牙城」と自負する『ザ・ニューヨーカー』は、当然に『Web Ⅱ』を優先させる。
こんな論争に身を置き続けるおばさまである、まあ、私ごときのお子ちゃまでは到底捌き切れようはずもない。
本書の表題はbetween you and me、日本の英語教育の中で律義に学んだものとしては、前置詞を目的格で受けることに何のためらいを抱く余地もない。
ところが、筆者を大いに震撼させる用法がしばしば観察される。セールスマンがぎこちなく本音を匂わせる何かを切り出して言うことには、“between you and I”...。筆者は「誤り」と一刀両断するものの、現に定着していること自体は否定できない。耳にする度に彼女にできることと言えば、「皮膚と内臓のあいだにある裏地か何かがぎゅっと縮み上がる」ような思いをしながら、meでしょ、とこっそりつぶやくことだけ。
この用法のユーザーに言わせれば、meはあまりにフランクな印象を与える。なるほど大文字で直線的に主張するIの存在感に比べればどこか頼りない気がしなくもない。語尾を延ばすその感じも緩いといえば緩い。それでもこの規範主義者は断固として譲らない、「Iはmeをフォーマルにしたものではない」。
ある面で、これほどまでに翻訳という作法が馴染まないテキストもめずらしい。
a thin, bargundy dressとa thin bargundy dressの違いを日本語化しろ、と言うのがそもそもからして無茶なリクエストには違いない。たとえネイティヴであったとしても、このカンマの有無に目が届き、なおかつ書き手が託しただろう意図を汲めている読者がどれほどいるのか、ははなはだ怪しいところではある。
しかし、こんなくだりひとつでも伝わるものは確かにある、つまり、たかがカンマひとつに生涯を捧げ心を砕いた者がここにいるのだ、と。そうした細部に目を凝らすことではじめて生まれる興奮があるのだ、と。
翻って、その目的は速報性をもってクリック数を稼ぐことだけ、誤変換とミスタイプをもって構成されるネット記事がいかなる参照にも堪えない理由がここにある。