The End of the World

 

 21世紀も20年が過ぎた今なぜ、一条さゆりなのか。

 私は、今だからこそ彼女を捉え直せると考えている。人物や出来事の本質は歴史を俯瞰してみて、初めて実像を結ぶ。

 ストリップ界に一時代を築いた一条、そして彼女が闘ったわいせつを巡る裁判も今なら新しい側面から捉え直せる。

 一条が争った当時、最高裁には女性判事が一人もいなかった。最高裁に女性判事が誕生するのは一条の訴訟から20年以上後である。彼女を裁いたのは最後まで男性の視点だった。……

 時代のうねりに翻弄された一条は、日本の戦後史にあって、ひときわ奇異な光を発するピースである。彼女をじっくりと追うことで、戦後復興から高度経済成長、平成になってからのバブル経済の崩壊まで、日本社会の変化がくっきりと見えてくるはずだ。

 

 こんなことをレビューでいきなり言うのもどうかと思うが、叶うものなら近くの本屋にでも今すぐ足を運んで、このテキストのプロローグをご一読いただきたい。

 そしてたぶん、気づけば買わされていることだろう。

 例えば本田靖春『誘拐』、例えば柳澤健1974年のサマークリスマス』。書き出しから掴まれて一気に読まされたノンフィクションというのも、過去に経験がないではない。しかし、本書がもたらす胸のざわめきはそれらと比してもあまりに異次元、とんでもないテキストを引き当てた、その直感に震える。

 

 そのおよそ20ページを占めているのは、中田カウスによる述懐。かたや駆け出しの前座、かたや人気絶頂のスターとして、ふたりはストリップ劇場にて出会い、両者は程なく旭日と斜陽のクロッシングを演じる。酸いも甘いも、苦いも辛いも、情緒の機微の何もかもが、この短い述懐に凝縮される。

 カウスは言う。

「嘘で引き込んでいく。芸の力です。嘘なんやけど面白い。嘘とわかっていても聴きたい。そういうもんなんです」。

 あるとき、客席からのヤジに悩まされていた彼に一条はアドバイスを送る。

「カウスちゃんね、お客さんにしゃべりかけるように目を合わすの。目が合ったお客さんは、自分を見てくれていると思う。すると騒げない。……あたしは一人一人と目を合わせて踊るようにしているの。みんなあたしを彼女(恋人)やと思うてるんやから」

 小屋に詰めかけた誰しもがその眼差しひとつで生まれた「嘘」に熱狂した。舞台の上下、画然と分かたれた群衆空間の中で、「彼女」であるはずもないことを知悉しながら、それでも「芸の力」は束の間、彼らを信じさせずにはいられなかった。

 

 秘すれば花、秘せずは花なるべからず。

 ノンフィクションとして著された本書は、その「嘘」のひとつひとつを剥ぎ取っていくことを半ば宿命として背負う。必然、プロローグの魔力はテキストを繰るほどに消えていくことを余儀なくされる。

 この営み、あるいはストリップに限りなく似る。

 それはまるで玉ねぎの皮を剝くように、一枚一枚を捨象していった先に――それでも残るものがあった。見え透いた「嘘」を打ち消して、打ち消して、それでもなお、「しずく」が残った。第一人者として警察から目をつけられ、裁判にかけられ、執行猶予つきの有罪を科され、それでもなお彼女は舞台に立てば、自らの局部を露わにせずにはいられなかった。

 客が求めた、だから応えた。誰が何を叫ぼうが、男は女を眼差すことをやめやしない。性という宿痾に縛られて、誰かしらが何かしらの仕方で引き受けなければならない、彼女は瞬間、相手を見据え、視線の権力関係を反転させて、その後、人身御供を「芸」として進んで負った。

「嘘」の先に、肉体という極限の真実が広がっていた。

 

 そして「芸」に身を捧げた一条は終生、「嘘」の住人でしかあれなくなった。実刑を食らってなお、現実のつつがない生活に軟着陸するチャンスは、傍から見れば、彼女にはいくらでもあった。しかしその度、彼女は自らその機会をドブに捨て続けた。アルコールに全身を蝕まれ、最期は釜ヶ崎に流れ着き、58年の生涯を閉じた。

 その死を振り返ってカウスは献杯を捧げる。

「最後を飾ったと思いました。一条さんが『普通の家庭におさまって、孫に恵まれて大往生しました』。これはやっぱり反則です。ぼろぼろになって一人で死んだ。だからすごいねん。『つらい経験もしたけど最後は家族に会えてハッピーでした』では、ドラマにならへん。ぼろぼろになって死んでいく。彼女の花道やと思いました」。

 プロローグの「スモーク」のまま、終わらない、終わらせない、「そのスモークを取り去って真実に迫った」、だから本書は美しい。

 

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