パイルダーオン

 

 動物とセックスをする。愛があるから。動物性愛者の性には、愛とセックスのわかりにくさと、ねじれがあるように思えた。

 動物性愛者は、どんなふうに自分のセックスと向き合っているのだろう。真剣であるならば、彼らは自身の愛とセックスについて考え、語ろうとしているはずだ。共感できるかはわからない。だが彼らと私が抱える問題には、共通する面もありそうだ。彼らに出会ったら、私はなにを感じるだろう。……

 人間と動物という組み合わせは、人間と人間の関係やセックスという行為を抽象化して照らし出してくれるのではないか。極限的な事例を通して、愛とはなにか、セックスとはなにかという、より大きな問題を捉え直すことができるのではないか。……

 人と動物が、種を超えてセックスすること。それは、人間にとっての愛やセックスそのものの意味を根本から問い直すことにも繋がるだろう。

 

 ある者は、犬を指して「僕の妻」と紹介する。ある車椅子ユーザーは、介助犬の性衝動を引き受けて、自ら「ズー[動物性愛者]」になることを決意した。また、とある女性は「ズー」であるパートナーからのカミングアウトを受けて、やがて、自らも「ズー」となった。

 ペットが恋人、そんなことを嘯く者にはしばしば出会いこそすれ、「ズー」を公言する知人にはそうそうお目にかかれない。実際に、そのような行為に至っていたとしても、それを周囲に告げることをためらうのも無理はない。なにせ現代の精神医学においてすらも、その行為は異常性愛のひとつに分類され、『DSM-5』のリストにも精神疾患として連ねられているのだから。

 しかし私たちは、例えば同性愛が異常性愛の典型として数えられ、医療的措置や時に刑事罰の対象として遇されてきた歴史を既に知っている。

 もしかしたら「ズー」においてその過ちを反復しているのではないか、本書を読むことは、あるいはそんな予感に背筋そばだつ経験に限りなく似る。

 

 それにしても、異種間というポイントは、ある種の戸惑いを生まずにはいない。

 動物に生殖への欲望が埋め込まれている、そのことについては万人が認めるところであったとしても、果たして種の異なる人間を相手にその欲望が向けられることはありうるのか、と。全裸で眠る人間の性器を舐め回す、あるいは単に匂いに釣られたに過ぎぬかもしれぬ犬によるその行動は、食欲ではなく性欲のサインとして受け止められるべきなのか、と。人間のアシストによる射精行為において、彼らは真に快楽を享受しているのだろうか、と。

 私たちがここに疑問符を拭えぬ理由は、ひとつには彼らと言語を共にしないという事実に立脚する。「ズー」たちはあくまで「自然」であることを強調するが、その正否に当のパートナーは返事を示すことはない。しぐさなどどうとでも解釈できてしまう。

 

 しかし、実のところ、私たちは同じ陥穽をヒトとヒトとの間においてすら抱える。私(男性)は、身体構造を異にする女性のエクスタシーについて知りようがないし、例えば青と名づけられているその色が他人にどう表象されているのかを確かめる術がないように、たとえ同性であっても快感とやらの含意をシェアしているかなど本当のところは分からない。DVSMは果たして何によって隔てることができるだろう。リアクション、顔色、表情etc...など何とても言い張れる、それは動物と交わるケースもまたそうあるように。

 ヒトはことばにできる。ただし、いくらでも嘘を紡ぎ出すこともできる。そのことばの中から、信じたいものだけを信じ、信じたくないものを退けることができる。

 その理不尽でグロテスクなことばなるものにあえてパッシヴにコミットする行為をもって、あるいはそれを愛と呼ぶ。不可知性を乗り越えて、それでも相手のことばやからだを受け入れる、その不条理を愛と呼ぶ。

 

 種を同じくする者によるmake loveを肯定し、違える者によるmake loveを否定する、ここにいかなる根拠があるというのだろう。

 この世のすべての愛なんて、生まれるのでなく作られる。

 

shutendaru.hatenablog.com

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