塀の外の懲りない面々

 

 本書のタイトルである『刑務所の精神科医』には二つの意味がある。

 一つは、本書が、主として刑務所などの矯正施設に精神科医として勤めた経験に基づいてかかれていることによる。……

 刑務所に収容されているのは、裁判で有罪を受けた人々である。しかし、一口に犯罪といっても千差万別である。計画的に殺人を行った者、見知らぬ通行人に暴行を加えた者、覚せい剤を売りさばこうとして逮捕された者、食べるのに困ってコンビニでおにぎりを万引きして逮捕された者、家族の介護に疲れて心中を図り自分は死に切れず有罪判決を受けた者、刑務所には、ありとあらゆる人生がある。少年院には、非行・犯罪をしたため家庭裁判所で収容が必要と判断された14歳から20歳までの少年少女がいる。少年院にもまたさまざまな人生がある。同じように、拘置所少年鑑別所にもさまざまな人生がある。

 本書で「刑務所」という言葉を用いたもう一つの意味は、刑務所に代表される矯正施設が、私たちの日常生活から高い塀で隔てられ、見えにくい世界になっていることと関係している。ここでは、「刑務所」という言葉は、私たちの社会の影の部分、陽のあてられていない部分を指すものとして使われている。つまり、刑務所という言葉はある種の隠喩である。

 こうした「刑務所」での私の経験の一部を書き綴ったのが本書である。

 

 これほどまでに淡々とした筆致で書かれた本も珍しい。

 精神科医によるただ一度のカウンセリングやコーチングで「刑務所」内の人々の人生が好転するなんて幸運がもたらされることはないし、投薬治療のマジカル・ビュレット一発で奇跡が呼び込まれることもない。

 ある面で、本書では何も起きない。

「自分の生活のために淡々と働くのがよい精神科医なのである」。

 読み進むほどに、このフレーズがエコーする。

 

 医療刑務所内で、明らかに認知症と認められる患者に複数接する。

 例えば、とある老人受刑者の服役理由は無銭飲食だった。累犯とはいっても、そのすべてが食い逃げ、万引きの類の軽犯罪だった。

 食事が終わってまだ間もないというのに、「飯を食わせろ」と扉をガンガン叩いて鳴らして刑務官の注意を引く。通常の病院ならば、散歩などで外の風に触れさせて気分が紛れるのを待てばいい、けれども、刑務所となればなかなかそうはいかない。刑務官から泣きが入り、静穏室への隔離を促される。精神科医として、個室にひとり取り残すことが認知症にとって最悪のトリートメントであることは分かり切っている。残された手段といえば向精神薬、もちろん副作用が伴う。もちろん、人手をかけられればそれがベスト、しかしその選択肢は事実上、与えられていない。薬で強制的に鎮めるよりは、静穏室の方がいくらかマシ、筆者はそう考えた。

 あるとき、刑務官のひとりに訴える。「この人を刑務所に入れておく意味があるとは思えない」。しかし、それを実行するには手続き上のハードルが高い。費用負担の問題も横たわる。そうした社会設計の問題となれば、もはや一精神科医の担いうる範疇をはるかに超える。

「自分の生活のために淡々と働く」より他に、筆者に何ができただろう。

 

 同じく度重なる万引きを理由に少年院や刑務所に収容されることとなる、ある種のグループが存在する。それは摂食障害を患った主に女性、この場合、先の事例とは著しく異なり年齢層が非常に低い。過食嘔吐をしようにも、いかんせん金がかかる。健康に支障を来したレベルでは就労によってそのコストを稼ぎ出すことは難しい。だから万引き。罪を重ね続け、ついには「刑務所」へと至る。

 彼らに窃盗の罪悪感を植えつけたところで、何が変わることもない。摂食障害が盗みを促さずにいないのだから。「刑務所」に入れられてすら、彼らの多くは食後の嘔吐をやめることができない。いくら厳罰を科したところで、摂食障害が癒されぬ限り、出所後の彼らは再犯を繰り返さずにはいられない。「刑務所」の向こうに留まる限りにおいて、一時的に万引き被害が抑止される、という以上の効果は発生しない。

 しかし、社会制度は彼らに対して適切なリソースを配分しようとはしない。「自己責任」を言い立てたところで、誰が癒されることもない、けれども今日も「自己責任」は大手を振って街を歩く。

 かくして今日も新たに継ぎ足される摂食障害キャリアを前に、結局、ここでも精神科医たちは「自分の生活のために淡々と働く」ことしかできない。

 

 医療を通じてたとえ誰かが少しの癒しを得たところで、「刑務所」の外側を変えない限り、今日も患者はその内側へと送り込まれ続ける。

 いい加減、気づけよ。

 

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