世界にひとつのプレイブック

 

 

 内臓から凍てつくような体温38度の悪寒に震えながら、案外これしきのことで死ぬのかもなんて思いながら、年の終わりにノヴェル・オブ・ザ・イヤーを読み返してみる。

 あらすじについては改めてなぞらない。以下のレヴューをご参照願いたい。

shutendaru.hatenablog.com

 映画『17歳のカルテ』、というか、リサ・ロウことアンジェリーナ・ジョリーの当て書き、という決めうちのもとで進行するこのレヴュー、そこまで分かっていながら、安城というネーミングがあからさまにアンジー由来じゃん、という動かぬ自白にはまるで気づく素振りを持たないこの感じ、こういう目の中の丸太をいつもながらに平然とスルーするこの感じ。それに比べれば馴染みを南志見と変換ミスしていたことくらいかわいいもので、つくづく自分の間抜けっぷりに嫌気がさす。

 

 たちまちにして、『17歳のカルテ』が連想できてしまう、私なりの理由があった。

 どう少なく計算しても10回は下らない、『アイスと雨音』によって更新されるまで、最も繰り返し私によって見られた映画――すべてスクリーンではなくDVDではあるけれど――が、この作品だった。かつて精神病院に暮らした経験を持つ元カノと切れた後で、こちらから別れを切り出したにもかかわらず、そしてよりを戻すつもりもないくせに、彼女をめぐる記憶を未練がましくつないでいたのが、この作品だった。

 そんな営みは明確な転機があるでもなく打ち切られる。

 どこにも映り込むはずのないその姿を勝手にちらつかせて、彼女を理解したつもりになる、そんな薄汚さにほとほと嫌気がさしたから。いや違う、リアルに目の前にいるときにはろくずっぽ知ろうともしなかった彼女、子ども過ぎた私には理解力も追いつかなかっただろう彼女をめぐる嘘を紡ぎ続けることに疲れ果てたから。

 

 そして『pray human』に出会い、久しぶりにDVDのケースを開く。

 10年ではきかないだろうほこりを落として鑑賞したその作品は――驚くほどに退屈だった。既視感のせいではない、だって昔はかじりつくように没入していたのだから。元カノが投影されることのないウィノナ・ライダーは、何もかもがどうでもよかった。いつだって記号的なアンジーはどこまでいっても記号的だった。確かに絵作りはクールだった、でもそれ以上でもそれ以下でもなかった。

 あえていいところといえば、孤独でないボウリングを楽しんで、たまの外出中に見かけた仇敵を相手に吠えてもらうことでようやく味方を見つけたスザンナが、独房に送られた友のために歌を捧げる、そのシーンだけ。いや、そこがゴールだろ、とちぐはぐな造りにたちまち意味が分からなくなる。

 いちいちがそんな作品だった。

 元カノの何もかもを忘れている、そのことを確かめるには十分に過ぎる時間だった。

「いい、人間ってのは、人の話なんか時間が経てば、少しずつ忘れていくもんさ。けど、自分の話を聞いてくれた人のことは、絶対に忘れない」。

 

 そうして20年の時が流れた。

「そうこうしているうちに、息が詰まりそうなほど大切な人と出会うの。いずれ、また別れはやって来るかもしれない。いえ、きっとやって来る。その都度、ひどく絶望して、孤独に陥り、苦しいあまり、自死したほうが余程良いように感じるかもしれない。人生は酷だもの。けど、それでいい。だって、またいつの間にかこんなに楽しい友達が傍にいるの。ね、わたしたち、そうやって一緒に生きていけたらいい」