かわいそうなぞう

 

象の皮膚

 カビですって、と凜の母が驚いてつぶやいた。

「これはアトピーの湿疹じゃない」とタグオ医師は続けた。「カビだ。正確にはカビの一種で白癬菌によるものです。わかりやすく言うと水虫とか田虫ですな。つまり人にうつる」……

 かかりつけの秋葉皮膚科で診てもらうと、こめかみの湿疹もアトピーに違いなく、白癬菌によるものでないとはっきりした。……

 よかったねえ、と母は言った。凜は肌が黒ずんでるから白い湿疹が目立ったのよ、水虫だったらお風呂の足ふきマットもタオルもスリッパも気をつけないといけなくなるからねえ。

 そう聞いて、潔癖症の母親が心配していることが、自分の疾患より家族の衛生だということに凜は思い当たった。皮膚病をうつされるのはごめんだ、と言われた気がした。

 小学校では、同じ年の子供たちは皆、美しい肌を持っていた。健康な肌を持っている人間なら誰でも羨ましかった。男子の泥だらけの膝小僧さえ眩しく輝いて見えた。自分の肌だけが赤黒く沈んだ色合いを帯びていた。大勢でいると太陽の黒点のように目立ち、注意を引き、決して気持ちを明るくしない肌。……

 同じ苦労はそれから20年経っても変わらなかった。凜は現在、書店で働いている。高校を卒業して一度、別の書店に就職したが、夏に半袖の制服を強要されたので辞めてしまった。腕の湿疹を晒したくなかったからだ。今は長袖の着用が許容されている書店で契約社員として働いている。毎年夏になると決まって同僚や上司に「なんで長袖着ているの」と聞かれた。その度、凜は「寒がりなんです」と答えた。

 

 この小説、ロクなことが起きない。

 父親に言わせれば、「うじうじした性格だから病気もつきまとうのだ」、そうしてことあるごとに鉄拳を娘に食らわした。母は母で次から次へと民間療法を聞き込んでは、片っ端から凜にそれを試し、決まって裏切られた。学校でも「肌のせいで嫌われると思うと、自分から話しかけることができなかった」。

 長じて大型書店のスタッフにこそなりはしたが、モンスター・クレーマーやどうしようもない正社員たちを前に、「私たちは自動販売機みたいだ、と凜は時々思った。機械となって本を並べて代金を受け取って釣り銭を返す。非正規の人というのは正規にあらざる人間であり、私は正式な人間でない人間だ。感情を持ってはいけない人間だ。自動販売機に徹することで世の中に役立たねばならない」。

 そんな彼女なりに職場として書店を選んだ相応の動機づけはあった。「本は好きだったが、それは身近にあって惨めな日常生活からいくらか離れられるという理由からだった。……こことは別の世界で、ぜんぜん違う人物になりたかった。一カ所でもこの世の中に、誰に気兼ねすることなくいられる安楽な場所が欲しかった。実際はそんな場所はなかった」。

 彼女には、ケータイのバーチャル恋愛アプリの他に、「人間以上に人間らしい人間」の居場所など見出しようがなかった。それでいて、課金ガチャに没頭できるほどの所得もなかった。

 

 人の痛みが分かるから、人には優しくできる。

 そんなはずはない。

 彼女にできることと言えば、苦痛の再生産だけだった。

 同じアトピー持ちの同級生に善意をかけられても、「醜い自分にさえ手を差し伸べようとする、ソノコの健気な気質そのものが受け入れ難かった。ソノコにいなくなって欲しかった。自分を憎しみを餌に肥えた化け物だと凜は思った。そうだ私はカビだったんだ。皮膚だけでなく、心もカビだらけになっちゃったんだ」。

 職場でのサイン会の混乱に心身をすり減らしながらも、オフで同様のイベントに参加すれば、自らが同様のモンスターに様変わり。

 

 筆者が何気なく配したディテールを広げることで、この小説もしくは凜の人生そのものを感動仕立て――ひどく陳腐で安っぽい――にする余地はいくらでもあっただろう。

 なんだかんだと言いながら、父は「お前のためにいろんな病院に連れていった。今通っているところも週末をつぶして車で二時間もかけていっているんだぞ、その上五分で終わる診察を二時間も三時間も待たされる」、その献身性に涙することだってできなくもなかった。

 女性店員をターゲットにしたクレーマーの応対に助け舟を出す男性スタッフもそこにはいた。しかしこのテキストが専らクローズアップせずにはいられないのは、トラブルの度に我関せずと逃げ回っては頃合いを図って現れてどうしようもない言い訳を並べ立てる同僚正社員の姿。

 311の直撃を受けた仙台の地にて職場が再開した際には、「こんなときに本が買えて嬉しいと言ってくれた客もいた」。絶望の淵にあってすら人間は書物を求めずにはいられない、あまりに薄っぺらに過ぎてそれゆえ世間受けするそんな美談を紡ぎ上げるくらい訳もなかっただろう。しかし本書に描き出されるのは、つまり凜の目に映るのは、大行列をなしてひたすらにいきり立つ顧客たちによるハラスメント。営業本部から送り込まれてきた上役がスピーチして言うことには、「この調子で引き続き好調を維持していきましょう」。被災者でもない彼らにしてみれば降って湧いたような特需でしかなく、朝礼は「しめやかに営まれる葬儀のような雰囲気を醸していて、悲しみというより空しさが漂う」。

 

 グロテスクで、グロテスクで、グロテスクで――

 そうなるのも仕方ない。

「凜はかわいそうと言われるのを忌みながら、本当はかわいそうと言って欲しかった。一番かわいそうだと思っているのは自分だった」、いや、自分だけだった。

 愛されたこともない人間がどうして、他人に対して愛し方を示すことができるだろう。

 だからあなたのせいじゃない。

 

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