ノー・タイム・トゥ・ダイ

 

 彼らには人工衛星があったが、わたしたちには彼らの本があった。当時、わたしたちは本が武器になりうると――文学が歴史を変えられると――信じていた。CIAは人々の気持ちや考え方を変えるには時間がかかると承知していたが、長期戦でそれに取り組んでいた。前身であるOSS時代から、CIAはソフトなプロパガンダ戦略を強化してきた。つまり、芸術、音楽、文学を使って、目的を推し進めようというのだ。達成されるべき目標は、現状のソ連がいかに自由な思想を禁じているか、社会主義がいかに自国のもっともすぐれた芸術家たちさえも妨害し、検閲し、迫害しているかを、強調すること。そして、その方法は、万難を排して文化的な素材をソ連国民の手に渡すことだった。……

 AEDINOSAUR(イーダイナソー)という暗号のもとに機密扱いされたそれは、すべてを変えるであろう計画だった。

ドクトル・ジバゴ』――当初、私たちの多くはその名前を綴るのに苦労した――は、ソ連でもっとも有名な存命の作家ボリス・パステルナークによって書かれ、十月革命批判と、いわゆる破壊活動的な内容のために、共産圏において禁書となっていた。

 一見したところ、ユーリー・ジバゴとラーラ・アンティポワの悲恋についての壮大な物語が、どのように武器として利用しうるのかは明らかではなかったけれど、CIAは常に建設的だった。

 初期の内部記録には、『ドクトル・ジバゴ』は「スターリンの死後、ソ連の作家によるもっとも異端な文学作品」で、「傷つきやすく知的な市民の人生にとって、ソ連の体制がどれほどの影響を持っているかについて、控えめながら非常に鋭敏に示されている」ため、「素晴らしい戦略的価値」がある、と書かれている。言いかえれば、完璧だということだ。

 その記録は、マティーニ漬けのクリスマスパーティーのときに休憩室でよく行なわれる逢引の噂よりも素早くソ連部内をまわり、最初の記録を支持する追加記録を少なくとも片手の指以上生み出した。曰く、これは単なる小説ではなく、武器である。これぞCIAが手に入れ、ソ連国民みずからに起爆させるべく、鉄のカーテンの向こう側に運びこむべき武器であると。

 

ドクトル・ジバゴ』が、ユーリーとラーラの恋愛という表テーマ、いわば小文字の物語に、ふたりの生きた同時代性、歴史性という大文字の物語を通奏低音を忍ばせたものとするならば、本書はいかにも意図的にその逆転構造を取る。つまり、東側の強権政治に西側のスパイ戦という大文字の物語を表層に据えつつも、しかし実のところ描かれ続けているのは、歴史の影に隠された女性たちの小文字の物語に他ならない。

 人知れずミッションを遂行する、その意味において、東西のいずれにおいても、彼女たちはいずれもが完璧にその任務をコンプリートしてみせた。なにせ記録にすら残らない、ゆえにその欠落はしばしば文学的な想像力をもって補完される他ないほどに。

 

 ボリス・パステルナークは、1958年に栄えあるノーベル文学賞に輝き、その辞退をめぐる騒動をもってその劇的な生涯にさらなるドラマを添えてみせた。

 そうして彼とその作品が浴した不朽の名声に比すれば、インスピレーションの源であるミューズことオリガ・イヴィンスカヤの冷遇ぶりは見るも無残である。彼女は何もボリスに愛を教えただけではない、完成した作品をタイピングしたのも彼女なら、もちろんそんなことが万にひとつも認められるはずもないことなど知り尽くした上で、ソ連当局との出版交渉にも臨んだのも彼女だった。ボリスを守り抜いた末、矯正収容所での三年間を過ごす羽目にも遭った。ふたりの私生児ももうけ育て上げた。それでもなお、彼にとっては「肝心なのは本ばかり。本以上に大事なものはなかった。……彼にとってはみずからの命さえ二の次だった。自分の本が第一だったし、これからもずっとそうだ」。そのことを間近で最もよく身に染みて知りながら、それでもなおオリガはボリスを愛さずにはいられなかった。

 

 対するアメリカはCIAにおいて、ロシア・ルーツのその女性、イリーナ・ドロツドヴァが委ねられた役割も一介のタイピストをはるかに超えたものだった。あるときは運び屋として、またあるときは修道女や学生に成りすまし、『ドクトル・ジバゴ』をめぐるこのプロジェクトを支え続けた。

 その何もかもがジェームズ・ボンドじみた稚拙な誇大妄想の産物、CIAやインテリジェンスをめぐる男たちの武勇伝が喧伝される傍らで、この架空の女性が隠密のスパイとして現在にその名を残すことすらなかったのは、あるいはむしろ本望なのかもしれない。しかし筆者はそこで終わることなく、このイリーナなる被造物に許されざる秘恋を託さずにはいられなかった。その性質がいかなるものであったかは、ここには決して記さない。だが本書のエンドロールに辿り着くとき、読者はその帰結を必ずや祝福せずにはいられない。

 ラーラ・プレスコットは、本書をめくるめく歴史スペクタクルの大河小説にはあえてしなかった、それぞれの女性たちの愛をめぐる小文字の物語に仕上げてみせた。この筆致こそが、主題に対しての最高級の誠実な回答として不可欠だった。愛が愛であること、私が私であること、そんなことすら分からぬ輩が作り出す大文字の物語にディストピアの他に何を見ることができるだろう。

 

「変化は内面から始まる」。

 腐り果てた「内面」が、あるときは冷戦を、そして今日の「新しい戦前」を必然として招き入れたのだから、その再生もまた、「内面」から、一冊のテキストからはじめるより他にない。

 猜疑と不信に基づく万人の万人に対する闘争、新しい戦中をこの日本では1995年からだらだらと引き延ばし続けているではないか。この四半世紀の経済成長率や労働生産性は、そのファクトを何よりも如実にあらわしている。

 必要なのは、眼前に広がる光景を焼け野が原として直視すること、玉音もなければ原爆もない世界にあって自らの誓いをもって一刻も早く新しい戦後へと立ち上がること、そのための糧となることばを見つけ出すこと。

 

 パステルナークには亡命のチャンスなどいくらでもあった。

 しかし、彼は生命を脅かされてすら、「絶対に祖国を離れることなどできな」かった。「木々や、雪の積もった散歩道から、離れることなどできない。アカリス、カササギ、自分の家、畑、日課を捨てることなど、できっこない。彼は外国で自由の身となるよりも、ロシアの地で裏切り者として死ぬほうを選ぶだろう」。

 ここにひとりの真正の愛国者の肖像を見る。

 だかしかし、オリガなくして彼は果たしてこの愛を叫ぶことができただろうか。ソーニャがその足を繋がれた大地だからこそ、ラスコーリニコフはひざまずいて口づけた。

 最高のレジスタンスとはすなわち、誰かを愛することにある。

 

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