恋する女たち

 

 本書の主人公は、そうした貴族として然るべく生きて、第一次世界大戦を空軍パイロットとして戦ったリヒトホーフェンという名の貴族の兄弟。そして貴族に生まれたが、当時の社会規範から遠く離れ、きわめて自由に恋愛に生き、周囲に影響を与えた同名貴族の姉妹である。……

 マンフレートとローターは、第一次世界大戦という「男の世界」を軍人としてストイックかつ強靭に生きた。兄は父なるドイツに短い生涯を捧げたし、弟は戦争を生きのびたが、戦後も航空機の操縦を生業として、空の「男の世界」で死んだ。兄弟の生涯はともに短いものだった。

 エルゼは、旅行をのぞけば、ハイデルベルクミュンヒェンを中心に終生、ドイツで暮らした。大学都市ハイデルベルクの学者たちの「男の世界」で生きたが、親友マリアンネ・ヴェーバーマックス・ヴェーバーの妻]のような貞淑な生きかたではなかった。むしろ、「男の世界」のなかに自身の「女の世界」をつくりあげて、母として生きぬいた。

 フリーダは二番目の夫となった〔D.H.〕ロレンスとともに世界を放浪したが、彼の死後はアメリカのニューメキシコ州の高地タイスに定住した。イタリア軍人と三度目の結婚をしたが、最初の結婚以来、つねに彼女を中心に形成された「女の世界」にいた。姉妹2人は長命を誇った。

 

 いかにも華麗なる一族である。

 血筋をたどれば、驚くべきことに16世紀にまで遡ることができる。時の神聖ローマ皇帝より賜ったvon Richthofenなるその家名には、錚々たる顔ぶれが並ぶ。例えば19世紀の地理学者、フェルディナント・フォン・リヒトホーフェンは「シルクロード」なる概念を提唱したことでその名を知られ、使節団の一員として日本に滞在したこともあったという。

 そして本書の主人公たちである。近代兵器の画期として語られる第一次世界大戦にあって、「撃墜王」マンフレートは戦闘機時代の嚆矢として実に80もの敵機を撃ち落としたことで、今なおその勇名を馳せる。国家的英雄として偶像化された兄には及ばずとも、その弟ローターも40機を撃墜、瀕死の重傷を負うも大戦を生き延びてみせた。女人禁制のアカデミズムの世界に足を踏み入れたエルゼは、当時としては異例の博士号を獲得し、女性工場監督官として官吏の道を歩み、しかしその先進性にも増して、マックス・ヴェーバーおよびその弟アルフレートらと結んだ親密な関係をもってその浮き名は今日に語り継がれる。フリーダに至っては、あの『チャタレー夫人』のD.H.ロレンスにインスピレーションを与えたミューズだという。

 

 しかし実のところ本書には、このブラッド・ラインには連なることのない陰なる主役が横たわる。

 その名をオットー・グロースという。ドイツ語圏における犯罪学の草分けを父に持ち、ジークムント・フロイトに師事した医師である。エリゼと情事を交わした末、その間に一児をもうけたに留まらず、時を同じくして妹フリーダとも愛人関係にふけっていた。

 とだけ書けば、あたかもロレンスの作品世界をそのまま三次元化したようで、官能小説やNTRを思わせずにはいない。しかし、そこには彼一流の精神分析の実践があった。曰く、「精神分析医グロースには、女性の精神疾患の原因は抑圧された性道徳や女性を抑圧する社会規範そのものであって、女性をそれらから解放することが『治療行為』となる」。

 この「治療行為」は、どうやらかのマックス・ヴェーバーにすら天啓Berufをもたらさずにはいなかったらしい。その傍証として『宗教社会学』の一節をここに重引する。

「なかでも婚姻関係に拘束されない性生活は、昔の農民にあったような単純かつ有機的な生活サイクルからいまや完全に抜け出した人間を、なおも生命すべての自然の根源へと結びつける唯一の絆であったように思われる」。

 炎上のための炎上に明け暮れる現代においては、あるいは彼らの「治療行為」は単に乱倫とでも糾弾される類のものなのかもしれない。しかし例えばアメリカの戦後において、社会との交流を絶たれた専業主婦たちの顛末といえば、そのことごとくが家庭の内にて精神を蝕まれていった。今日においても、スマホやテレビによって他人と引き離された輩は、統合失調症の典型そのままに、バカげた被害妄想によって陰謀論者化、ネトウヨ化の道を踏みとどまることができない。ラブもピースも何も知らないこれらの惨めに過ぎる症例と比較するときに、私はどうにもそこに「治療行為」をこじつけずにはいられない。

 

 そして再び「撃墜王」へと引き戻される。

 そもそもからして引く手あまたの貴族の血を継ぐ。大戦中の功績によってアイコンとしてもてはやされもした。本人が望みさえすれば、マンフレートは社交界のセンターとして輝ける栄光を享受することができただろう。

 だがその実生活といえば、「同僚たちとは距離を置き、親しい友人もいなかった。同僚たちの輪にくわわることもなく、通常は1人で食事していた。趣味が騎馬と狩猟だった幼年学校時代とおなじく、社交、ダンス、芸術のほか、――さらには女性にも――まったく関心を示さなかった。

 マンフレートが唯一、気の許せる人間は母親のクニグンデだけだった。自伝に掲載されている彼の書簡の引用には宛名がない。それらはすべて母親宛てなのが自明だからである」。

 

 女たちにはエロスがあった。男たちにはタナトスしかなかった。

 

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