明治の末に生を享けた芳乃にとってのそれは「綿毛」だった。
「三歳になっても綿毛のようにしか毛が生えてこず、不安を覚えた両親が町医者に連れて行くと、先天性の疾患で手立てはなく、今後も薄いままだと告げられたそうだ。……
当の芳乃自身は、子供の頃は近所の悪童達に、おい綿毛、やい綿毛と随分ちょっかいを出されたし、二人の姉達や弟の義彦は、皮肉なことに絹ほど艶やかな毛髪の持ち主だったから、娘時代には拗ねた気分を持て余したこともあった。
器量よしの姉達には降るようだった良縁も、自分のところには全くといってよいほどなく、たまに来たと思ってもどこかに難ありの縁談ばかりで、この相手と結婚するくらいならいっそ蚕に嫁ぐと騒いで両親を困らせたこともある」。
そうして未婚のまま27歳を迎えた芳乃には、ある支えがあった。養蚕を営む両親を手伝う傍ら、年に一度、4月の農閑期には、「絹糸を片撚りするところから始めて、季節の草花から染料となる植物を見定めて、牛の乳の色に似た生糸を様々な色合いに染めあげ」て、それを自ら機で織る。その「あまりの面白さに食事や睡眠さえもおろそかになり、家族の手で無理やりに寝床まで引き摺られることも珍しくない。熱中の甲斐あってか、ここ数年は反物に随分といい値がつくようになり、三越の仕入れ担当も作品が仕上がると必ず見に訪れるようになった」。
かたや平成生まれの詩織にとってのそれはADHDだった。
「詩織は日常生活を営む上での不注意が多く、物事の段取りを組むことや優先順位をつけて同時並行の作業を行うことが極端に苦手だ。……
30歳:欠陥人間、40歳:欠陥人間、50歳――。……
これからもずっと欠けたまま生きていくしかない。母に失望されながら、自分でも自分に失望しながら、迷惑をかけた人間に頭を下げて、こんな自分であることに頭を下げて」。
そんな彼女にとっての生きる糧もまた、機織りだった。
「単純な動作の繰り返しで複雑な織り模様をなしていく伝統工芸に今ではすっかり魅了されている。……
仕事とのバランスを考え、もっと睡眠時間を確保しなければと思いながら、一旦手をつけるとどうやっても止められない。明け方まで集中してしまい、短い眠りを貪ることが増えていった」。
もっともこの趣味を同居する母の絹子には隠したままでいる。中学時代の手芸部からしてそうだった。シングルマザーの彼女曰く、「手芸で身の回りのものをこしらえたりすれば、生活苦なのかと勘ぐられ、周囲に見くびられるというのである」。
そしていよいよ織物の聖地の桐生にて念願の出品がかなわんとするその前日、帰宅した詩織に母は冷淡に告げる。作品は燃えるゴミとして捨てた、と。果たして彼女は家を出た。
「これまでにも家を出ようと思ったことはあったが、自分が人並みにやっていく能力があるとは信じられず、波が来る度に躊躇して見送ってきた。しかし今回はやった」。
以下、ネタバレビューかつブチキレビュー。
本作においては遺伝的な宿命として記号的に設定されているのだろう、薄毛やADHDという障害、コンプレックスを没入できる何かへの果てしなき愛着をもって克服していくふたりの女性の姿を描く、たぶん主題としてはそんなところなのだろう。
さらにそこに時代的なトピックが追加される。昭和の芳乃においては戦争であり、平成の詩織においては毒親問題であり、発達障害であり、と。
好きをもって自分の道を切り開く、はずなのに、ところが肝心のストーリー・ラインが平然とその主題を裏切っていく。
ともに異常なまでの熱情を機織りに傾けずにはいられない、というだけの共通点で時代を超えて結ばれた女性の姿を並行させて追いかけていくのかと思いきや、両者の行く末はまもなく交差する。何のことはない、このふたりは同じ一族に身を置いていることが明らかにされる。直接の血のつながりこそないものの、ファミリー・ツリーによって未来を予め約束されたヒロインの貴種流離譚へと本書はめでたくも着地する。
だとすれば本書が明確に伝えていることには、ADHDが血の定めであるのと同じく、数多あり得ただろう選択肢の中から選び取られた織物へのアタッチメントも詰まるところは血の定めによるものであり、従って生まれつきの束縛からはいかなる仕方でも決して人は逃れることなどできない、と。言い換えれば、たまさかブラッド・ラインによって解放のルートを与えられた主人公以外には救済の道などどこにもない、と。クラフトマンシップの霊感の声を聴くことができるのは唯一親族に限られる、と。
好きという思いは何を克服させてくれることもない、どころかその感情すらも予定説的に選ばれた者に向けてプログラミングされたものでしかない、らしい、本書のロジックを忠実になぞれば。
モーセやオイディプス以来の定番、『スター・ウォーズ』といい、『ブラックパンサー』といい、世の中はつくづくこの手の王子様、お姫様に媚びへつらうのが大好きだよね、とふて寝しをかましつつ、対照的な小説を少し前に読んだな、と思い出す。
永井みみ『ミシンと金魚』。
この小説において、貧困家族に生まれ落ち、そしてそこからついぞ抜け出すことができなかった老境の主人公が示すのは、痴呆を来してなお自らに刻み込んだ文字をもって、せめてもの意志、自らが生きたというその証を表現しようとする、その姿。知をもって血を凌がんとする、その姿。
ある面でリアリティをいうならば、むしろ『世はすべて美しい織物』にこそ優位があることは認めざるを得ない。文化的資本格差が埋まる機会など現実世界にはそうそう転がってはいないし、幼くして成功体験や自己肯定感の調達に失敗してしまった層にとっては、食欲や性欲や暴力衝動といった脊髄反射系ポルノ消費を超えて、何かに対してのめり込むような愛着を寄せることすらもひどく難しいのは紛れもない事実なのだから。
なるほど確かに、モンペによって翼をもがれた詩織には、血統という一発逆転の魔法の呪文が必要だったのかもしれない。
持たざる者には――何もない。
ただし時に事実は小説より奇なり。
知はあまりにしばしば抑圧を軽やかにすり抜ける。
本作の中では、昭和13年の段階で早くも「パーマネントが禁忌となったせいで、美代子[芳乃の義姉]の前髪からは緩いウェイブが消え」た。
しかし、飯田未希『非国民な女たち』に従えば、現実の戦禍を生きた人々はこれしきのことでヘアスタイルを諦めたりはしなかった。彼女たちは防空壕の中にすら、石炭のパーマ器具を持ち込まずにはいられなかった。洋装の機能美を知ってしまった彼女たちは、敵性云々との批判をそれとなくかわすような衣服をデザインせずにはいられなかったし、モンペに耐えられるような審美眼を持ち合わせてもいなかった。
「好きな服を着てるだけ/悪いことしてないよ」なんて、プリンセスプリンセスのはるか前に彼女たちは既に歌っていた。そこにおそらく明快な反戦思想などなかった。知なる禁断の果実の味だけがそこにあった。一度知に触れた者は、誰しもに同じ服をまとわせる全体主義のグロテスクを自ずと退けずにはいられない、知なるものをめぐるただそれだけのシンプルなファクトがそこにあった。
現実を見渡せば、男女の平等には依然程遠く、階級のフラット化も絵に描いた餅にすぎない。
それでもなお、この腐り果てた今でさえも昔よりもいくらかはまとも、らしい。50年前よりも、100年前よりも、1000年前よりも。
その功績はすべて知に負う。
血とはすなわち、稚であり、恥であり、痴であって、ただ垂れ流されるためにある。
ファッションは知を着る。ファッショは知を切る。
作りたい服を織る、着たい服をまとう。新しい戦中を生き延びて未来を開くための、たかが血ごときに屈することのないしたたかな知のかたちがそこにある、本書が決して知ることのない。