タイガーズ・ワイフ

 

 ビーターによると、母さんは1988818日午後235分ちょうどに、53軒からなる村を見下ろす丘にあるいちばん背の高いスモモの木の上で啓示を受けた。それは日々、鍋やフライパンを洗う音が木立まで響き、けだるさを吹き飛ばす時間だった。まさにそれと同じ瞬間、ソフラーブは目隠しをされ、後ろ手に縛られたまま絞首刑になった。裁判は行われないままの処刑だ。翌朝、数百人の他の政治犯とともに、テヘランの南にある沙漠に掘られた細長い穴に集団埋葬されることになるとは、本人も思っていなかった。墓には何の印も墓標もなかった。数年後に親戚が現れて墓石を小石で叩き、「唯一神の他に神はなし」と唱えられると厄介だからだ。(中略)

「世間の人にとって人生は、新年〔イランでは春分の日〕の前と後に分かれているのかもしれない。それか革命前と革命後に。でもわが家の暮らしは、アラブ人来襲前とアラブ人来襲後に分かれている」。あの出来事のことを母さんは決して“火事”とか“火災”とは言わず、いつも“アラブ人来襲”と呼んだ……。母さんは今でも、彼らがやって来て火を点けたこと、略奪して人を殺したことを強調したがっている。ちょうど1400年前と同じように。

 

「わが家」が住まうのはホメイニ革命後のイラン、テヘランにおける“アラブ人来襲”を辛うじて逃れて辿り着いた辺境の地ラーザーンにすらも、その数年後、魔の手が伸びる。父が持っていた「間違った本! 神に背き、クルアーンに反する本! 革命に反対する本!」は片っ端から焼き払われた。ゴーリキーも、プラトンも、ホメロスも、シェイクスピアも、カフカも、クンデラも、「声の一つ一つ、本の一冊一冊が私たち5人家族の肉体と魂の一部になっていた」その何もかもが、ことごとく灰燼に帰した。

 途方に暮れて一週間が流れ、そして父は言った。

「私たちは書くことを始めなければならない。(中略)書け。覚えていることを全部書け。小説に出てきた登場人物、恋愛関係、戦争、平和のことを。彼らの冒険、憎しみ、裏切り……。本を読んで覚えていることを何でもいいから書くんだ」。

 

 果たして誰が言い出したのか、人は二度死ぬ。一度目は肉体の死をもって、二度目は他者からの忘却をもって。

 このテキストの人物たちにとって、時に「死にはいいことがたくさんある。突然体が軽く、自由になり、死、病気、裁き、宗教がもう怖くなくなる。大人になる必要もないし、人と同じ人生を送らなくてもよくなる」。なぜならば、彼らにとってのひとまずの「死」は、件の一度目の死に過ぎないから。記憶をもって永らえる彼らに言わせれば、「死の感覚でいちばん大事なのは、知りたいと思ったときに何でも知ることができるということだ」。

「死」とはすなわち、「肉体と魂の一部」、書物の寓意として表れる。

「私たち」には、祖先より引き継がれる秘蔵のトランクがある。「私たちの一族はみんななかなか死なない」、ゾロアスター教徒である彼らが生きた証を伝えるそのトランク。中に収められているのは「預言者の欺瞞と無益さ」を綴った手書きの2冊、それを著したという廉により、10世紀の彼もまた、イランの地を追われた。

 抵抗者たることを宿命づけられた一族は、ひたすらに目撃し続けた、「あらゆる反逆を吸収し、自分の中に取り込み続ける」その姿を、誰しもが同じように誰かを殺すその歴史を。体制は時代時代で入れ替わり、しかし、それは単に粗製乱造品のその顔を入れ替えたというに過ぎない。すべて人類史とは、コピペのためのコピペに過ぎない。

 本書は時に幽霊によるささやかな抵抗を試みる。父が拷問にさらされれば、「私」は「明かりを消し、男の身体を引っ掻き、シャツを破った。それから顔にパンチを浴びせ、壁めがけて男を椅子もろとも投げ飛ばした」。ホメイニは、ただひたすらに「どうして?」を浴びせかける少年の幻影を前に、「私は独り言を言うときには獰猛な独裁者だったが、対話をするときにはただの強情っぱりで気取った理不尽な子供――顎髭を生やした子供――だった」ことを悟り、そして絶命する。

 これを「空想」にしないために刑事権力はある、法廷はある、民主主義はある。

 もっとも、万人の万人による闘争に終止符を打つリヴァイアサンによる刑罰が、死んでも死に切れぬ無名の人々の義憤が、しかし現実において執行されたためしがないことくらい、そしてこれからも執行されることがないことくらい、誰だって知っている。天網恢々疎にして全漏れ、事理弁識能力なき彼らが何らの葛藤を味わうこともなく天寿を全うしていくことくらい、誰だって知っている。あるいは彼らの中には討たれた者もあるかもしれない、しかし歴史が教えるに、討った者のことごとくは所詮同じ穴の狢、討たれた者のロジックをそのままトレースするに過ぎない、ゆえに世界の何が変わることもない。

 量産型の特性は、同じことを繰り返すこと、同じことしか繰り返せないこと。そんな彼らによって営まれる「この世は危険だから、生まれてきた子供がかわいそう」。

 それでもなお、生まれてしまった子どもにはせめて、「人生がこれほど欠陥だらけで平凡なときには、空想の力で現実に元気を与えて」もらう精神の自由、ヴィルヘルム・テルが物語的産物でしかないことを知悉した上で享受する自由、別なる未来を構想する自由くらいはある。

 彼らが劣化コピーをもってバックアップを取り続けスクリプトを反復するように、「私たち」は「書くこと」で生命をつなぐ。

 

 そして肉体にも多少の自由はある。

 作中、とある女性が齢三十にしてはじめて「自然な体の欲求に従」う。「寝室の扉に鍵を掛け、リチャード・クレイダーマンのピアノアルバムを収めたカセットテープをステレオにセットし、イーサーのきれいな手と日焼けした顔を思い浮かべて体を愛撫した。かつてない興奮を味わいながら、恥ずかしげもなく服を一枚また一枚と脱ぎ、ひんやりしたシーツを体で感じた。身をよじり、むき出しの肩と腕にキスをし、噛み、30年の生涯で初めて絶頂に達したときには、悲鳴を抑えるため必死に噛んだ枕が破れた。全身が汗に覆われ、脈動した」。

 リアルを果てしなく拡張したポルノがインスタントに入手できるこの時代に、これしきの「オルガスム」描写が誰の欲情を誘うこともない。しかし、ただこれしきのヴィータ・セクスアリス表現すらも許されなかった時代があって、それどころか性を享受することすらも許されなかった時代があった。そして今なお、これしきの「オルガスム」を抑圧せんと望むクズどもは確かにいる。

 ほっとけ、バカ。

 政治犯として命を絶たれ街をさまよう幽霊たちはやがて、たとえ「殺人犯を殺しても事態は一向に改善しないと気づ」く。そして間もなく、「泣いて……泣いて……泣いた。彼らは愛する人と食事をともにできないことを泣いた。ハーブシチュー、肉とナスのシチュー、鶏肉とクコの実が入ったピラフを食べたかった。家族と一緒にくつろいで笑いたかったし、家族のキスやおやすみの言葉が恋しかった」。

 好きな誰かと食卓を囲むこと、ベッドを共にすること、すべて「書くこと」の根底に横たわるのは、ただこれしきの幸福にすぎない。「この世は危険だから、生まれてきた子供がかわいそう」、そんなことくらい分かり切ってなお、これしきの幸福の果実として時に生まれ落ちるだろう誰かの記憶の中に住まい続けることをどうしようもなく求めてしまう。

 だからこそ、「泣いて……泣いて……泣い」て、書いて……書いて……書く。

 

 かつてJ.S.ミルは書いた、満たされた豚であるよりは満たされぬ人間である方がいい、満たされたバカであるよりは満たされぬソクラテスである方がいい、と。

 殺すより他に使い道のない豚とはすなわち殺すにも値しない豚、かくしてやつらはのうのうと生き永らえる。イランも日本も変わらない、世界は豚のためにある。

 でもせめて人間には、愛する誰かとともにグッド・ルーザーに甘んじ続ける自由がある。豚どもがそんな自由を知る日など決して訪れることはない。

 

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