涙のキッス

 

 雨のロンドンの街角で、三人の男女がひょんなことから出会いを果たす。

 ひとりは音声学者のヘンリー・ヒギンズ、話すことばのわずかな母音の特徴から「6マイル圏内に出身地を特定できます。ロンドンなら2マイル圏内。時には通りを2本以内に絞れることもある」、そう豪語してはばからない。発音矯正のレッスンでも既に数多の実績を誇る。

 彼とたちまち意気投合したのは、インド帰りの紳士、ピカリング大佐、サンスクリット語の研究でも名を馳せる。

 そして対するは、ほとんど当たり屋かキャッチも同然の、場末の花売り娘イライザ・ドゥーリトル。がらっぱち全開のコックニーに耳を奪われたヒギンズは、ある実験を彼女に向けて持ちかける。

「どうです、このドブ板に泥水を流したような英語の発音は、これじゃ一生貧民街から出ることはない。けど、わたしなら、3カ月でこの子を大使館の園遊会でも公爵夫人として通用するようにして見せます」。

 面白い、とこの賭けに乗ったのがピカリングだった。「わたしはうまくいかない方に、この実験費用の全額を掛けます。それと、レッスン料はわたしが持ちましょう」。

 果たして話はまとまる。

「イライザ、お前はこれから半年間、ここに住んで、美しい話し方を学ぶんだ、……で、半年後、きれいな服を着せて馬車に乗せてバッキンガム宮殿に連れて行く。お前が貴婦人でないことが国王陛下に知られたら、警察にしょっ引かれてロンドン塔へ送られ、首を刎ねられるだろう、……だがもし、ばれなかったら、花屋の売り子になる支度金として7シリング6ペンス、プレゼントしよう」

 

「一人の人間を連れて来て、新しい話し方を教え込むことで全く別の人間に作り変える、それがどんなに興味深いことか。これは、階級と階級を、魂と魂を隔てている最も深い溝を埋めることなんです」。

 このマニフェストが、本書の主題を宣言しているだろうことにおよそ疑いの余地はない。

 ピカリングが属するのは官吏の頂、まさしく上流階級であり、反してイライザは典型的な労働階級にも満たない下層を表象する。標準語とはすなわち、上意下達を可能にしてオペレーションを潤滑に進めるための軍隊ベース、工場ベースの統一言語、初期設定の彼女ではそのレベルに辿り着くことすらできない。

 それに比してヘンリーの割り振られた立場というのは、いささか奇妙なものとなる。生活水準や家柄を取ればアッパーミドルのそれであることに疑いはない。しかしその自己評価に比して、彼に与えられたロールというのは極めて不遇。名門の教授職でも受けて然るべき学識を誇るにもかかわらず、一介の在野のレッスンプロに甘んじている。そうした鬱屈の表われか、細やかな発声から放たれる肝心のその内容といえば粗野そのもの。マナーなども精通しているはずなのに、実践はまるで追いつかない。時代背景を差し引いてもおそらくは極度のミソジニーとしてキャラづけられ、とりわけイライザを前にすれば、ブロークンな罵詈雑言が止まらない。

 程なくしてヘンリーとイライザは奇妙な仕方で「最も深い溝」を埋めることに成功する。音声や文法によるパッケージングは完璧、しかし彼らの「魂と魂」においては何が満たされることもない。

「愚かにも、自分のような階級の人間には生まれつき気品が備わってると思って、学ぼうとしないんだ。何事も人よりうまくやるには、何らかの専門的な努力が必要なのにな」。

 そうした「努力」によって誰よりもレディらしいレディはできた、どんなジェントルマンよりジェントルマンにだってなれるだろう、しかしそれらが暴露したのは、「あなたがたのような方々と、私のような人間には、気持ちが通じ合うことなどないのですから」という事実だけだった。硬直し切った階級社会の最終到達点は、それはもはやハビトゥスの問題ですらなく、階級を超えた各人の各人との分断だった。なまじ「努力」を知ってしまった者たちにしか見えない世界がある、ことばで生じた苛立ちはことばで吐き出すより他ない、その一点でヘンリーとイライザは限りなく似ていた。

 

 ツンデレじゃん。

 あるいは、現代となってはそんなジャンル小説としても本作を読むことができるかもしれない。

 口論のさなか、ふとヘンリーは我に返ってイライザに尋ねる。

「じゃあ、今、ここで、一体何を言い争ってるんだ?」

「わたしはただ、ちょっと、思いやりが欲しかっただけです。……いっしょにいるのが楽しかったからやったんです。それと、あなたを――あなたのことが――大切に思えてきたから。愛してほしいと言ってるわけではありません、身分の違いを忘れたわけでもありません。そうではなくて、もっとお友だちのようになりたかったんです」

「なんだ、それなら僕の気持と一緒じゃないか。ピカリングもそうだ。イライザ、バカだね、君も」

 こんなやりとりを聞かされたら、いいからてめえらくっついちまえよ、と1億人中1億人が必ずやツッコミを入れずにはいられないことだろう。

 しかし彼らがそのような結末を迎えることは決してない、少なくともバーナード・ショー世界線においては。

「彫像のガラテアがみずからの創造主であるピグマリオンを本当に好きになることは決してない。彼女にとっての彼はあまりにも神のごとき存在であり、到底つき合えるものではないのである」。

 結局、ヘンリーは、というよりもショーは、支配‐被支配のマチズモ構造の他にいかなる関係性をも想像することができなかった。男女の性を入れ替えようとも同じこと、この作品の真のテーマとは「彫像」と「創造主」の非対称性であり、ここにおいてイライザとヘンリーの関係はヘンリーとその母のそれと完全な相似形をなす。

 だからこそ、ヘンリーはピカリングとの間にホモ・ソーシャルな関係を結ぶこともできない。イライザと向き合う傍らで、彼が大佐に認めた役割といえば、彼女にとっていかにも都合のいいあしながおじさん、キャッシュ・ディスペンサーでしかなかった。

 作中、ヘンリーはさらりと打ち明けずにはいられない。

「僕が好ましいと思える女性は、お母さんみたいなひとだから。若い娘を本気で好きになるなんで、僕には到底無理だな」。

 ヘンリーが愛することができるのは母ただひとり、そしてその愛が満たされることは決してない、エディプス・コンプレックス丸出しのこの図式を彼はイライザを通じて再生産する。ゆえに、ここまでのあからさまな愛の告白をもってさえ、子は親と、イライザはヘンリーと結ばれ得ない。

 

 思えばヘンリーの言語学者としてのあり方ひとつをとっても、母の影が漂わずにはいない。

 彼の得意といえば、発声――わけても母-音、もっとも原語vowelの語源にそのニュアンスは含まれないらしい――のかすかな痕跡を手がかりにそのルーツをたちまち特定してみせること。誰に教えを施されたでもない、母なる源流を探し求めずにはいられない彼の特異が導いた無人の荒野だった。

 とはいえ、いかに教育を通じて新たな母を捏造することに成功すれど、彼は母を克服する術をついぞ知らない。

 

 いみじくも彼女の姓はドゥーリトルDoolittle、あるいはこうも聞こえるだろう、Do-little。

「どうしてわたしから独りでやっていく術を奪ったの?」

 ガラスの靴の脱ぎ方を忘れてしまった灰かぶりのこの嘆きは、実のところ、ヘンリーが実母に向けたこだまに過ぎない。あなたへの愛を知ってしまった僕が、どうして他の女を愛することができるだろう、と。

 そうして存在を持て余すヘンリーにできることといえば、例えば他の誰にも読解できない独自の速記法で綴られた手紙を一方的に送りつけることだけ。母への回路を閉ざされた瞬間から彼は誰とつながることもできない。彼は永遠の自己撞着の中で、自らに限りなく似たマネキンを作り上げ、それがあくまでマネキンであるという限りにおいてときめきを寄せることしかできない。

 イライザがピカリングに向けて言う。

「本当の意味でレディと花売り娘の違いは、どう振る舞うかではなく、どう扱われるかにあるのです」。

 大佐が当然に範を示したように、ミス・ドゥーリトルと呼びかけることも、立ち上がって出迎えることも、帽子を脱いで恭順の意を示すことも、ドアをエスコートすることも、おそらくヘンリーは母から口酸っぱく叩き込まれていたことだろう。しかし彼にはついぞできなかった。他の女性に対してもそうだった、イライザであってさえもそれは変わらなかった。

 仏作って魂入れず、入れられるはずがない、「彫像」は「創造主」を作れない。彼のマイ・フェア・レディは母しかいない。

ピグマリオン』とはすなわち、その不能性、不可逆性をめぐる試論に他ならない。

 

 

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