さとうきび畑

 

 沖縄は長い間、日本列島の端の端に位置し、その文化も異端、異色と位置づけられてきた。しかし、アジアや環太平洋を広く見渡した地図上に琉球列島を置くとき、それは地図の中心であり、文化が交差する地点であることが明らかになる。沖縄は古い時代から、四方の文化を程よく吸収し、独自の文化を築き上げてきた。食文化についても例外ではない。世界、とりわけアジアの食文化を考えるとき、沖縄の食は日本本土とは異なり多数派に属することが容易に見えてくる。……

 世界の食文化というと幅広く、多種多様で私の手に負えるものではないが、私は実際に見聞し、味覚した片々だけを書きとめて専門家のご教示を仰ぎたい。

 

 表題からして『沖縄の食文化』と大きく出した、となれば、ある面ではいかにも総花的な記述に終始することを予感させる。もちろん、歴史的経緯を全く無視している、というわけではない。

 例えばかの地における豚肉食のはじまりはおそらく14世紀、明から持ち込まれたものと目される。もっともそれは一握りの王侯貴族のためのもの、庶民に手が届くようになるのはようやく17世紀以後、甘薯の普及を待たねばならない。折々にこうした情報も拾われはするがごくごく簡潔で、微に入り細に入り文献をあたり知られざるルーツを探ったり、集落を訪ねて回って滅びかけた伝統食を掘り起こしたりする、という気配はない。

 ではそれに代わって何をする、といって、つまりは1924年生まれの自身を食文化の目撃者と見立てて、ひたすらにその記憶をひもといていくのである。

 

 いなむどぅちから蘇るのは、「少年時代に出た兄の結婚式」の思い出。「結婚の当時の昼ごろに花婿が花嫁の家へ行く。すると花嫁の家に辿り着くまでに、その家の周辺の若い衆が通せんぼをして花婿に意地悪をする。……ご先祖を拝もうとして、線香をあげようとすれば、香炉の灰に皿が埋められていてどうしても線香が経たなかったり、お膳を出され、昆布の煮しめを勧められれば生煮えで噛み切れない、……苦労の末、花嫁を獲得するのである」。そうしてようやくの会食の席で供される祝いの椀がいなむどぅちなのだという。ちなみに宴の後、花婿は男友達に担がれて色町での夜遊びに耽るまでがならわしで、新生活がはじまるのはようやく三日目のことだという。

 

 ごくごく個人的な記憶の扉を開けているようでいて、そのドアは思わぬ仕方で歴史性と結びつかずにはいない。

 幼き日のサトウキビの思い出、那覇の街から友人数名と農村までひたすら歩き、ようやくありついたその味。「長いキビを三つくらいに折り、歯で皮を剥いてかじり出す。歯でかむと、ジュッと口にあふれる汁が何ともいえず甘かった」。

 しかし、地上戦によって甘美な記憶はたちまちにして上書きされる。「沖縄戦の最中は、さとうきびでどれほど人の命が救われたかわからない。ちょうど7月から9月にかけて私もキビにありついて命をつないだものである。水の少ない戦地ではキビは命の綱であった。……キビ畑にいる時、米兵にみつかると、自動小銃弾がキビに当たってあちこちに曲がるので物騒だった。南部のキビ畑で米兵に襲撃された私の親戚の者は4人連れのうち3人が即死し、残る1人は右腕を撃たれただけで命拾いした。……キビにまつわる辛い思い出である」。

 たまたま読んでいた別のテキストにて知る、この筆者、米軍をして「ありったけの地獄を一つにまとめた」と言わしめた前田高地の戦い――あのハクソー・リッジである――にて、約800人から編成されていた大隊の中を生き残ったわずか29名のうちのひとりだという。

 

 そしてこの砂糖をふんだんに用いたちんすこうである。その履歴をたどれば、「中国の南部で作られていた鶏卵糕とルーツを一にするが中国菓子を学んだ宮廷の包丁人が沖縄独自の菓子を作り上げた」。この菓子も元々は梅花のような丸いかたちをしていたというが、あるときから側面にギザギザの入ったあの長細いフォームへと改められた。そのきっかけは、クッキーの型抜きが米軍から払い下げられたこと。これをもって大量生産の体制が確立されるようになる。

 今や沖縄土産の代名詞となったこの菓子ひとつからも歴史のほろ苦さが走らずにはいない。

 

 

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