民衆の歌

 

 不思議なことに、その年、1906年の秋には、子供がいなくなる事件が例年より多く起きたが、シカゴでも、セントルイスでも、ニューオーリンズでも、ピッツバーグでも、あるいはもっと小さな町でも、失踪した子供の親たちはみな同じ問いと答えを脳裏によぎらせるのだった。誰がうちの子をさらったのか? マーノ・ネーラだった。マーノ・ネーラはイタリア語で「黒い手」を意味する。恐るべき秘密結社、ブラック・ハンドのことだ。

 ブラック・ハンドは悪名高い犯罪組織だった。「あの極悪非道な、悪魔のように邪悪な組織」と呼ばれ、恐喝、殺人、子供の誘拐、大型の爆弾による爆破事件などを行っていた。……

 ある著者は、「過去十年間にこの都市で起きた犯罪の記録は、平和な時代の文明国では歴史上類を見ないものである」と書いた。20世紀初頭に大衆を恐怖のどん底にたたき込んだという点でブラック・ハンドをしのぐのは、人種差別主義の秘密結社クー・クラックス・クランくらいのものだろう。ある新聞記者はイタリア系移民について、「彼らは心の底から、大いなる、血の凍るような恐怖を覚えている」と書いた。1906年秋には、多くのアメリカ人がその状態にあったといっていいだろう。

 

 イタリア系をもってイタリア系を制す。果たしてニューヨークにおいてその任務を委ねられたのが、ジョゼフ・ペトロシーノ、その男だった。「背の低い、がっしりした、胸板の厚い、港湾労働者のような体格の男だ。……といっても、無骨な男ではなく、それとは反対の教養人だった。……

 はにかみ屋で、職務においては廉潔そのもの。静かに話すが、ときに無謀なまでの度胸を示し、必要とあらば荒っぽいことも辞さない。変装の名人で、身をやつしているときに道ですれちがうと友人ですら気づかないほどだ。……

 この犯罪組織は愛する祖国アメリカを深刻に脅かしていると感じていた。オペレッタのアリアを口ずさみながら街を歩いた」。

 

 そのファミリー・ネームは現地方言でパセリを云う、今日なおもシチリア・マフィアの悪名をもって世に知られるその島に、ペトロシーノもまたルーツを持っていた。今日においてすらも国内南北問題がささやかれるイタリアにあって、一か八かの大逆転は新天地に求める他なかった、そうして船に乗り込んだひとりの少年が、靴磨きからのし上がりついにはアイリッシュの金城湯地たる警察にイタリア系としては初のポストを獲得するに至る。同胞から時に裏切り者扱いを受けながら、それでもなお、この「忍耐力pazienza」は同胞のためにこそ、ブラック・ハンドと闘わなければならなかった。一刻も早く制圧しなければ、彼らは「ますます強力で残忍な組織になる。アメリカ中に勢力をひろげて、イタリア系住民からアメリカ人として受けいれられる機会を奪ってしまう。ニューヨークブロードウェイやシカゴの演劇の世界では、イタリア系の男といえばナイフをふりまわすならず者というイメージがすでにできあがっているではないか。ブラック・ハンドが新聞の紙面をにぎわしつづけるかぎり、イタリア系の人間というのはほかの人たちとはちがう極悪な連中だと思われるだろう」。

 つまり、このテキストの主役というのは実のところ、ペトロシーノでもなければいわんやブラック・ハンドでもない、名もなきイタリア系アメリカ人たちに他ならない。

 大半は新大陸におけるつつましやかな日常を欲してやまない、その生活を壊してなるものか、その義憤があるときはペトロシーノに結実する。しかし反面、ヘイトの壁に隔てられる日々にやつれ果て、ままならぬ現実ならばいっそ吹き飛ばしてしまえばいい、ブラックハンドとはそんなローン・ウルフのテロリズム感情に与えられた別称だった。両者はいわばイタリア系の分裂した感情から生まれた双頭の鷲だった。

 

 さすれば、ブラック・ハンドを討つ主体もまた、彼ら一市民たちであらねばならなかった。

 彼は時に「犯罪者以上に被害者に対して怒」ってやまなかった。脅迫を受けてみすみす相手の言い分に乗る、一度成功すれば味を占めて要求はますますエスカレートする、このインフレ・スパイラルによっていずれ身を滅ぼし、かくしてブラック・ハンドの焼け太りに献身し続ける「被害者」は彼にとって「わが身かわいさにあさましい」存在としか映らなかった。

「もっとも、誰もが屈したわけではなかった。ペトロシーノに感化されてか、自分の倫理的な怒りにもとづいてか、マンハッタンだけでなく全米のイタリア系住民のなかにはブラック・ハンドにノーという人たちも多くいた」。

 とある銀行家は息子を誘拐され、程なく身代金を要求する手紙を受け取る。警察に知らせるな、との忠告を無視して、彼はペトロシーノに連絡を取る。巷では間もなくとある噂が駆けめぐる、銀行のストックで身代金はあがなわれるのではないか、と。真に受けた顧客の一部は取り付けに殺到し、それでもなお彼は毅然と要求をはねのけ続けた。そして数日後、隙をついて逃げ出した息子が彼の元へと戻る。彼はプレスを前に朗々と説いた。

「わたしにも、みなさんと同じ親としての本能はあると思っています。しかしわたしにはそれ以上のものがあるのです。わたしは父祖の国を愛し、その国の人々を愛してきました……わたしは同胞がアメリカ人として真っ正直に地位をあげていくのを妨げることに加担したくありません。それをしないためには、お金であれ、子供であれ、家屋敷であれ、命であれ、何だって差しだすつもりです」。

 そしてこの態度に感化された人々は、銀行の新顧客となることで応えた。

 いかにペトロシーノが英雄的な献身を示そうとも、ひとりの人間にできることなどたかが知れている。暴力の不条理に対抗するには、か弱き人々が身を寄せ合ってリヴァイアサンを作ればいい。自分たちのことは自分たちで決める、どのみち「生まれるのは一度、死ぬのも一度」なのだから。果てしなく低きへ流れる水をせき止め汲み上げる、名もなき人々のささやかな勇気の総和をもって世界は今日も辛うじて成り立っている。

 

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