夢を信じて

 

 私はある明確なプロジェクトを抱えてミシシッピ・デルタに向かった。黒人文学を通して子どもたちにアメリカの歴史を教えよう、かつて私が心ゆさぶられた文学を子どもたちに教えようと考えていた。8年生のときの自分と同じように生徒がキング牧師の『バーミングハム獄中からの手紙』に奮い立ち、高校生のときの自分のようにマルコムXの自伝に魅了されるさまを私は思い描いた。それからジェイムズ・ボールドウィンも。嘲る群衆の中を通り抜け徒歩通学する子どもたちの勇敢な克己心について書いた作家、ボールドウィンの作品も読んでほしいと思っていた。ラルフ・エリスンの言葉を借りれば、「世界に立ち向かい、自らの経験を正直に評価しようとするひとりの人間の意志」を称えることを、私は本に教わった。私を変えたのも、私にさまざまな責任を引き受けさせたのも本だった。だから、生徒の人生も本で変えられると信じていた。臆面もないロマンチストだ。22歳だった。……

 派遣された先は、スターズ(Stars)というおよそ不釣り合いな校名のオルタナティブ・スクールだった。地方自治体がいわゆる不良を最終的に放り込む学校だ。無断欠席する子、ドラッグの常習者、たえずトラブルを起こす子、喧嘩の絶えない子など、普通の学校を追い出された生徒がやって来る学校である。……

 パトリックに出会ったのはこの学校だ。彼は15歳、8年生だった。……

 昼休み、ほかの生徒がわれ先にと人を押しのけてランチの列の前方に入ってゆくのに、パトリックは体を反らせてあとずさった。いつも心ここにあらずといった様子だった。課題に取り組んでいるときに知らずと鼻歌が出て、だれかに突かれて初めて気づくこともたびたびだった。プリントを自分の机の上にまき散らしたまま帰ったり、あちこちのポケットから出して広げたりした。にっこり笑っても満面の笑みではなく、満面の笑みを浮かべる練習をしたけれどやめた、とでもいうような顔だった。

 何よりもパトリックには、スクールバスに紛れ込んでしまった迷い子のような雰囲気が漂っていた。そして実際、スターズに来てからわずか1か月で、学校に出てこなくなった。

 

 揺るぎなき大志に燃える、まるでフィクションの熱血教師ものを思わせる書き出し、つまりは足元をすくわれることが予め約束された。

 台湾系移民、ハーバード卒、そんな筆者にしてみれば、何もかもがカルチャー・ショックだった。公民権運動発祥の地でありながら、この取り残された街で過ごせば過ごすほどに「あの運動は国民の空想の産物で、ただのつくり話だったのではないかと思えて」ならない。住人たちにしてみれば、アジア・ルーツの人物などそもそも接したことすらない、思いつくのはテレビの向こうのジャッキー・チェンかヤオ・ミンくらい、親戚かと時に真顔で尋ねられる。校内には警官が常駐し、体罰も当たり前に行使される。授業で黒人文学を扱おうにも、彼らの語彙はそれらを理解するにはあまりに貧弱で、そして彼女も彼女で、その事実を直視しようとはしなかった。「ボールドウィンの短編を読ませたのだが、言葉が難しすぎて、言葉が難しすぎて生徒たちは挫折した。マルコムXの演説を読めば憤るかと思い、読ませてもみたが、退屈させただけだった。……オバマの演説は、歴史への言及も、熱く語りかける言葉も、何もかもがあまりに自分とかけ離れていて実感がなさすぎ、生徒たちにはぴんとこないようだった」。

 トップ・ダウンの居丈高なティーチングで蹉跌を重ねる彼女と生徒たちの関係を多少なりとも変えてくれたのが、新たなアプローチの導入だった。I am, I wonder, I see, I dream, I cry...これらの続きを各人が埋めて詩を作る。「一見シンプルな構造の詩だ。これなら簡単にできそうに思える。空白に言葉を入れるだけなのだから。しかし、それがトリックなのだ。書き込むためには内省しなければならない。自分について何を知っているか、自分が何を求め、何を失ったのか。扱いづらい生徒にも自己の内面に向き合ってもらわねばならない。心のうちを声に出してほしいと言えば、彼らはきっと笑い飛ばすだろう」。そうして彼女は声を聴く。「ある生徒のいとこが15歳か16歳のときに牧師に妊娠させられた話。ヘロインでハイになった継父に、バッテリーを投げつけられた女の子が流れ出た酸で片脚を失ったという話。あるいは、銃をもてあそんでいたアル中がたまたま引き金を引いて、姪を殺してしまったという話」。

 そうして彼女はある日、自らが犯していた過ちに気づく。彼女が読んでほしいと願っていたテキストもまた、「書きたいという切迫した思いから――ちょうど『アイ・アム』の詩のように――書かれたものだということを、ちゃんと生徒たちに説明していなかったのである」。

 その中でも、パトリックは際立っていた。スラムの中のスラムに暮らし、学校に来るモチベーションすらも調達できなかった、そんな内向的な少年がテキストとの出会いによって開花する。「真の詩」と唸らずにはいられないほどの作品を綴り、成績もめきめきと向上し全校表彰されるほどになる。

「言葉こそが大事だったのだ。言葉が人を強く育てたのだ」。

 めでたしめでたし。

 かくして生徒たちを見事に覚醒させた筆者は、デルタでの2年間を終えて、名高きスカラシップつきのロースクールでのエリート・キャリアへと戻っていった、はずだった。

 ある日、彼女は友人からの連絡を受ける。

「パトリックが人を死なせたのだった。いまは拘置所の中だという。ある男と喧嘩になり、相手を3回刺したのだという」。

 

 ここまでの長大なあらすじは、実はほんのプロローグでしかなかった。

 塀の内で再びまみえたパトリックは変わり果てていた。筆者が去って間もなく学校をドロップアウトした彼は、「いろんなこと、忘れて」た。「文章がほとんど読めなくなるほど、こういうことから遠ざかっていたのだ。これが現実のパトリックだ」。彼女によって組み込まれたはずの彼のハビトゥスは、デルタの地に染みついたハビトゥスを前にあっさりと洗い流されていた。

 法律家としての資格を得ていた彼女には、弁護のために駆動させられる知識もなくはなかった。アルコールに混濁した被害者から妹を守るべく正当防衛を行使した、なるほど陪審員や裁判官を納得させるに十分な論理構成だった、ただしそれは白人が黒人その他マイノリティを殺めた場合に限り。

 それよりも、アーカンソーに戻った彼女には果たさねばならないミッションがあった。「ふたりのあいだにつながりをつくる必要があった」。アポストロフィすら綴れなくなってしまった彼と、スターズの続き、「宿題」を再開する。

 

 フレデリック・ダグラスの自伝からパトリックは論旨を要約する。

「身のまわりで起きていることを理解すると、もう彼は奴隷じゃなくなる。奴隷でいいんだって思わなくなる」。

 しかしこのフレーズは、「ヘレナに生まれ、ガーランド・アヴェニューとフォース・ストリートの交差点に住んでいた」彼にはあまりに過酷なものだったかもしれない。筆者は運命の「奴隷」と差し出された彼を前に逡巡せずにはいられない。

「『あなたは自分の行動の主体にはなれない』とでも言うの?

『あなたは自分を変えられない。自分の未来を変えられない』と言えばいいの?」

 それでもなお、ことばの力の他に彼女に何を信じることができただろう。ふたりにとって究極の「宿題」とは、テキストを読むことではなく、手紙を書くことだった。あるときは被害者の母に向けて、あるときは自分の愛娘に宛てて手紙を書く。

 その中で、「とても奇妙なこと」が起きる。ボールドウィンが甥に渡した手紙の中に期せずして「パトリックの声が聞こえてきたのだ」。

 私はこの手紙を5回書き出し、5回破り捨てた。

 目の前にはたえずきみの顔が浮かんでいる。きみの顔は、きみの父親であり私の弟でもある人の顔だ。

 私がこんな話をするのはきみを愛しているからだ。それを忘れないでほしい。

 いま、きみは私たちに愛されているのだから生きのびねばならない。きみの子どもたちやそのまた子どもたちのために。

「ある人に本を1冊渡す。その人がそれを読み、心を動かされる。ある段階を越えたら、あなたはただの本を運ぶ人になる。相手と本とをつなぐパイプ役でしかなくなるのだ」。

 所詮、実存など退屈なコピー・アンド・ペーストをいかなる仕方でも超えることがない。デルタの現実に身を浸し、日々向き合ったパトリックにできたことといえば、定量統計のサイコロの赴くままに殺人という一線をまたぐことだけ。用意されていた他の出目といえば、被害者の側に回るか、ホームレスになるか、最善といってもおそらくは健康を損ねた上での早死にくらいのもの。

 狂気とは、同じ過程をたどりながらただし別の結果を望むこと。「あなたは自分の行動の主体にはなれない」、そう、あくまで現実とやらを参照し続ける限りにおいては。社会という関数の演算システムすら理解できないすべて実存主義者は自己責任論者と常に同質、哀れでみじめで浅はかで、人間担当能力すらないサルでしかあれない。

 別なる枝分かれが欲しければ、硬直した再生産回路を改めたければ、この世界の初期設定を根本から書き換えるしかない。3歳児レベルから更新されることのない、生身のコミュニケーション――その語源は共有――とやらが消費していく、ChatGPT未満の単調でみすぼらしいノイズの一切と決別して、メディア――その語源は神と人とをつなぐ中間媒介――の「パイプ役」として天上のテキストを地上へとたぐり寄せるしかない。

 すべて三次元は文字平面よりもずっと退屈、ずっと鈍重、ずっと空疎。

 耐え難い、だから彼らは本を読む。

 

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